『田村隆一全詩集』を読む(100 ) | 詩はどこにあるか

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 「定型」という作品。

死が
色彩のなかから生れる
定型とは
知らなかった

ならば
生は不定形だ
動脈と静脈のリズムから
生れたばかりに

それで人は
ウイスキーという不定型な液体で
心を定型にしようとするのだ

猫は知らない

 2連目がおもしろい。「死が/色彩のなかから生れる/定型」であると田村がどのような経緯で知ったのか、この詩からはわからない。また、ここで書かれている「定型」も私にはわからない。「定型」って何?
 2連目がおもしろい、というのは、そのわからないものを前提にして「ならば」とことばが動いていくからである。
 田村は、「死が/色彩のなかから生れる/定型」であることは知った。そして、そのことをもとにして「知らない」ものを推測している。「生」を田村は知らない。知らないから、知っているものをもとに、それを推測する。反対のものを想像する。「死」と「生」は反対である。「定型」と「不定型」は反対である。では、「色彩」の反対は? 「リズム」と田村は考えている。リズムは音楽かもしれない。
 そして、その「リズム」のなかに「動脈」「静脈」という逆の動きがある。地はただ一方へ動いていくのではない。往復する。循環する。それが「リズム」だ。
 そこから、田村はさらに推測する。
 3連目。「それで」……「するのだ」。
 そんなふうにして、「ならば」「それで」とことばを動かしていく。そういう動きそのものは「推測」の「定型」である。しかし、その「定型」はきまった結論にたどりつくわけではない。どこへたどりつくかわからない。結論は「不定型」である。「定型」→「不定型」という動きがここにある。
 しかし、これはとても奇妙な(?)動きである。ひとのいのちは「死」からははじまらない。「生」からはじまる。田村は、その動きを「死」から、逆にたどっている。推測している。
 3連目の「それで」からはじまることばの運動--それが「結論」にたどりついているのかどうか、それはよくわからない。
 4連目の「猫は知らない」は何を知らないというのだろうか。
 たぶん、これまで書いてきたような、ことばの運動を知らないということだろう。「ならば」という推論。「それで」という強引な展開。
 人間は、ことばをそんなふうに動かしながら、不定型を生きる。
 田村のことばのなかには、「ならば」「それで」というような表現は少ない。少ないけれど、意識の奥にはそういう運動があるのだろう。
 詩が短いゆえに、逆に、そういう隠れたものが浮き上がってきたのかもしれない。

 「耳」にも、「定型」に似た部分がある。

耳は
トルソの深部にある

どんな閃光を耳は聞くのか
どんな暗闇の光を耳はとらえるのか

それで
午睡の人が
物になる瞬間

その周囲に
やさしい色彩の波が
音もなく満ちてきて 白い

波頭は見えない

 2連目の「耳」が「閃光」を「聞く」というのは、田村が何度か書いている感覚の融合である。「耳」は見るのか、と書いた方がすっきりするかもしれないけれど(他の作品で田村が書いている表現と整合性がとれるかもしれないけれど)、ここでは「動詞」は「耳」に従属させている。そのあとに「暗闇の光」と矛盾したことばを書くための助走かもしれない。「暗闇の光」とは暗闇のなかにある光ではなく、暗闇そのものが光であるととらえた方がおもしろい。「矛盾」が強烈になる。(暗闇のなかにある光では、矛盾が生まれない。)それを「耳」は、どう「とらえる」か。この、「とらえる」は「聞く」か、「見る」か。もちろん、「見る」である。「見る」でなければならない。
 「耳」は「暗闇の光」という矛盾を「見る」。それを「見る」ことができるのは、「耳」が「肉・耳」になっているからである。「肉」を経由することで、感覚が融合する。
 そのあと。
 3連目。「それで」ということばで、ことばが「論理的」に動いていく。もちろん、この「論理的」というのは、科学的ということとは違う。ことばが、ことばの力を借りて、自律して動く、その自律性のことである。

それで
午睡の人が
物になる瞬間

 「それで」にことばを補うとすれば、「耳」が「肉・耳」になり、感覚の融合が起きるので、ということになるだろう。感覚の融合が起き、ひとの感覚器官が「肉・耳」「肉・眼」というものになるとき、人間そのものが「物」になる。
 人間が「物」になるとき、あらゆる色彩、つまり「死」がまわりに押し寄せる。それは死に詩人が押しつぶされるということではない。死が、いのちに生まれ変わろうと押し寄せる、ということだ。
 5連目。「波頭が見えない」のは、「波頭」が「肉・眼」には聞こえるからだ。「肉・耳」は「音」を聞かず、つまり「音もなく」押し寄せてくる死の色彩が「白」であることを「見る」。そして、そのとき「肉・眼」は白い「波頭」を見るのではなく(見えない)、「肉・耳」が聞き逃した「音もなく満ちて」くる、その音を「聞く」のである。
 動脈と静脈のなかを流れる血が循環するように、「肉・耳」「肉・眼」のなかで、見る・聞くが循環し、入れ代わる。融合する。そのとき、人間は「人間」ではなく、「物」になる。
 「トルソ」になる。



半七捕物帳を歩く―ぼくの東京遊覧 (1980年)
田村 隆一
双葉社

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