『田村隆一全詩集』を読む(91) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

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 「黒いチューリップ」という作品がある。「自由」について語っている。

「自由」
この言葉くらい厄介なものはない

 なぜ、厄介か。だれも否定できないからだ。「自由は悪だ」という人はいない。「自由」を否定できない。だから、厄介である。ある意味では「自由」はもっとも不自由なことばかもしれない。

「自由」
この言葉くらい厄介なものはない
クネッサンス・イデオロギーのおかげで
裸体の美女を拝むことはできたが
その代償に「自由」という不良債権を
人類はかかえる破目になった
(略)

「自由」を求めるなら 化学的な
ガス・チェンバー シベリアの強制収容所 三千万単位で粛清する強力な独裁者
その独裁者を創造するのだって 緻密な権力闘争の構造が必要だ
「自由」を求めたかったら まず「強制収容所」をつくること

 この引用部分の最後の行に、田村の「思想」が集中している。どんな「思想」でも、何かを否定し、破壊してはじめて誕生する。「自由」もまた何かを破壊した結果としてそこにあらわれてこなければ「思想」ではない。はじめからそこにあるものではなく、そこにあるものを否定する。破壊する。そのとき、その破壊の果てにあらわれてくるものが「思想」でなければならない。
 「自由」はそういう意味では、もっとも手にいれにくい「思想」なのである。
 そこに「自由」があるとき、それは「思想」ではない。破壊し、その破壊のなかで獲得しないかぎり、「思想」が手に入らないとすれば、「自由」は「いま」「ここ」に存在してはならないことになる。
 なんとも、厄介な「矛盾」である。

 そんな「矛盾」を書いたあと、この作品は、唐突に連を変える。

トルコの球根から
東洋と西洋との接点に黒いチューリップが咲きはじめる

 詩のタイトルの「黒いチューリップ」は出てくるが、この2行が、「自由」とどんな関係にあるのか、ここではなんの説明もない。
 わけのわからない「飛躍」がここにはある。
 わけがわからないけれど、この「飛躍」を私は美しいと思う。ことばには、こんなふうに「飛躍」する「自由」がある。そして、これは、田村の「自由」の実践なのだと思える。
 先に私が書いたこと、「自由」は破壊のなかから手にいれなければならない、というような「意味」を破壊して、この2行は存在する。
 「自由」は、いま、そういう形でしか存在し得ないのである。

 ことばは、どんなことばでも「意味」をかかえこんでしまう。「意味」の体系が(文脈が)ことばを拘束する。そこから、どうやってことばを解放するか。意味を叩き壊し、意味のない「自由」を獲得するか。
 それには、「頭」を捨て、「肉眼」になって、そこに存在するものを「見る」しかないのである。




詩と批評E (1978年)
田村 隆一
思潮社

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