「自由」
この言葉くらい厄介なものはない
なぜ、厄介か。だれも否定できないからだ。「自由は悪だ」という人はいない。「自由」を否定できない。だから、厄介である。ある意味では「自由」はもっとも不自由なことばかもしれない。
「自由」
この言葉くらい厄介なものはない
クネッサンス・イデオロギーのおかげで
裸体の美女を拝むことはできたが
その代償に「自由」という不良債権を
人類はかかえる破目になった
(略)
「自由」を求めるなら 化学的な
ガス・チェンバー シベリアの強制収容所 三千万単位で粛清する強力な独裁者
その独裁者を創造するのだって 緻密な権力闘争の構造が必要だ
「自由」を求めたかったら まず「強制収容所」をつくること
この引用部分の最後の行に、田村の「思想」が集中している。どんな「思想」でも、何かを否定し、破壊してはじめて誕生する。「自由」もまた何かを破壊した結果としてそこにあらわれてこなければ「思想」ではない。はじめからそこにあるものではなく、そこにあるものを否定する。破壊する。そのとき、その破壊の果てにあらわれてくるものが「思想」でなければならない。
「自由」はそういう意味では、もっとも手にいれにくい「思想」なのである。
そこに「自由」があるとき、それは「思想」ではない。破壊し、その破壊のなかで獲得しないかぎり、「思想」が手に入らないとすれば、「自由」は「いま」「ここ」に存在してはならないことになる。
なんとも、厄介な「矛盾」である。
そんな「矛盾」を書いたあと、この作品は、唐突に連を変える。
トルコの球根から
東洋と西洋との接点に黒いチューリップが咲きはじめる
詩のタイトルの「黒いチューリップ」は出てくるが、この2行が、「自由」とどんな関係にあるのか、ここではなんの説明もない。
わけのわからない「飛躍」がここにはある。
わけがわからないけれど、この「飛躍」を私は美しいと思う。ことばには、こんなふうに「飛躍」する「自由」がある。そして、これは、田村の「自由」の実践なのだと思える。
先に私が書いたこと、「自由」は破壊のなかから手にいれなければならない、というような「意味」を破壊して、この2行は存在する。
「自由」は、いま、そういう形でしか存在し得ないのである。
ことばは、どんなことばでも「意味」をかかえこんでしまう。「意味」の体系が(文脈が)ことばを拘束する。そこから、どうやってことばを解放するか。意味を叩き壊し、意味のない「自由」を獲得するか。
それには、「頭」を捨て、「肉眼」になって、そこに存在するものを「見る」しかないのである。
詩と批評E (1978年) 田村 隆一 思潮社 このアイテムの詳細を見る |