監督・脚本 ナ・ホンジン 出演 キム・ユンソク、ハ・ジョンウ、ソ・ヨンヒ
これは非常におもしろい。元警官がデリヘル斡旋をやっている。その元警官のたいせつな金づるが消えてしまう。どこへ消えた? それを追っているうちに、猟奇的な殺人者と出会う。彼がデリヘルを殺していたのである。犯人はわかっている。その犯人を元警官はつかまえる。それなのに、追いつめることができない。この矛盾。そこがおもしろい。
そして、その捕まえたのに追いつめられないという「矛盾」のなかに、人間がなまなましく浮かび上がってくる。「社会」が浮かび上がってくる。
犯人は、女を殺しました、とあっさり告白する。どんなふうに殺したかを、簡単に語る。異常性を平然と語る。それなのに、彼は釈放されてしまう。現在の法律では、きちんとした「証拠」がないと、公判を維持し、「殺人者」を裁くことができないからである。犯人は、それを知っている。そして、警官たちもそのことを知っている。検事は「証拠」を要求するだけではなく、また犯人に対する「人道的取り扱い」も要求する。犯人に暴行を受けたあとがある。それだけで、不当捜査の証明になる。逮捕は無効になる。
犯人の方が上手なのである。殴られても、いっこうにへこたれないのである。殴られること、暴行を受けることが自分にとって有利であることを知っている。「肉体」がすべてを隠してしまうのだ。「肉体」が傷を受ければ受けるほど、彼は犯人ではなくなる。犯人であることからまぬがれる。このとき「肉体」が引き受けるもの、その「闇」のようなものが、とても怖い。こんなふうにして「肉体」を利用してしまう犯罪というものが、とても怖い。
理不尽さのなかで、元警官のいらいらだけがつのる。犯人は、最後のひとりはまだ生きているというからなおさらである。まだ殺していない。殺しかけている最中なのだ。なんとかすれば助けられるのである。そうわかっているから、いっそうあせる。やみくもに「肉体」でぶつかっていくしかない。犯人を殴るだけではなく、女がいるだろう「家」を探して走り回る。その、じれったいような「肉体感覚」がとてもいい。
この二人の肉体のあいだに割って入り込む、他の「肉体」もすごい。「肉体」が増えれば増えるほど、つまり登場人物が増えれば増えるほど、犯人は犯人であることが明確になるのだが(誰もが彼が犯人だと思うようになるのだが)、犯人はどんどん犯罪から遠のく。「自由」になる。ついには保釈されてしまう。そして、女刑事に尾行されながらも、最後の犯行をやり遂げさえするのである。
「雨」もなんだか、すごい。雨のシーンが多いのだが、その雨さえも「肉体」のように感じられる。「空気」が「肉体」になって、二人のあいだを、広げたり縮めたりする。別なことばで言えば、濃密にする。元警官が、女の手がかりをもとめて街をさまよう。そのとき、元警官は、探している女の娘(少女)をいっしょに車にのせている。そして、あるデルヘル嬢から、男が女を殺す嗜好をもっていることを聞き出すのだが、そのことばを少女は聴いてしまう。
そのあと。
男は車を走らせる。少女は助手席で大声で泣いている。この映像を、カメラは雨越しにとらえる。少女の声は聞こえない。ただ、大きく開いた口、目をぶって泣く顔だけがアップで映る。男の、やりきれない顔が映る。雨が映る。とても、いい。とても、せつない。とても悲しい。
あらゆる「肉体」がぶつかりあう。あらゆる「肉体」が傷つく。だれも救われない。だれも救われないのに、はげしくこころを揺さぶられてしまう。剥き出しの感情に触れるからだ。感情というと、ことばが美しすぎるかもしれない。ことばにならない、いらいら、無残さ、むごたらしさ--そういうものに直に触れるからだ。
*
ここまで書いてきて。
どうも、感想の書き方を間違えたらしい、とも思う。
役者の肉体、その顔を中心にして書いた方がよかったのかもしれない。元警官と犯人。あるいは、まわりの警官、精神分析官(?)、検事--その顔と肉体。被害者の女の顔。少女の顔。元警官の助手の顔。
元警官の顔は「だらしがない」。しまりがない。すくいがない。犯人は、陰湿である。ずるい。その肉体が絡み合う。そこへ、直接、事件そのものとは関係ない「第三者」の警官(事件を事件として追っている--元警官のように、自分の金づるの女を助けたいと思って追っているのではない警官)の、一種、覚めた肉体が割ってはいる。どうしても「肉体」はしっかりとかみ合わない。殴り合うことはあっても、相手の「肉体」の「痛み」のようなものは、まったく触れ合わない。どんなに傷ついても、その傷が互いに影響するわけではない。あくまで「他人」の傷である。
人間関係がかみ合わないということは、日常でもよくあることではあるけれど、それは実は「頭」や「利害」がかみ合わないのではなく、ほんとうは「肉体」がかみ合わないのではないか、と思えてくる。他人の「肉体」を感じられなくなっているのではないかと思える。相手のちょっとした動作、表情--そこから相手の感情を読み取り、何かを理解するということがなくなっているのではないかと思う。
犯人は、あたりまえのことかもしれないが、元警官が気にしていることなど、いっこうに気にかけない。女が心配? それが、いったい、どうした? その他人の痛みを感じない「肉体」、その「肉体」の存在感が、とてもすごい。とても不気味だ。そして、元警官は、人間的な痛みを感じない犯人の「肉体」にいらだつ。同時に、自分の「肉体」のいらだちに共感しない警官たちの「肉体」にいらだつ。
現代は、「肉体」の共通感覚をなくした時代なのかもしれない。
その「肉体感覚」の共有が失われたということを、俳優という特権的「肉体」をつかって表現した、これは、とてつもない映画である。