『田村隆一全詩集』を読む(86) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。


 「他人」を語り直す。それは「アフリカのソネット」にとてもわかりやすい形であらわれている。書き出し部分。

第一次世界大戦の数年前
「ぼく」はケンブリッジ大学の自然科学部門のカレッジの奨学金を得たとき
まだ十七歳 一年待たなければ入学できないから
パリをうろついてフランス語を勉強したり
北アフリカの エジプトに近いスーダンまで足をのばしたり
そこで偶然珍らしい甲蟲(ビートルズ)を見つけることになる

 田村は詩の登場人物の主語に「ぼく」をつかう。この詩でも「ぼく」ということばがつかわれている。しかし、この詩の「ぼく」は田村自身のことではない。(ぼく、ということばそのものも、カギ括弧のなかに入っていて、田村自身ではないことを明確にしている。)「オズワルド叔父さん」のことである。田村の叔父さんではない。ロアルド・ダールの長編小説のなかに出てくる主人公である。田村は、その小説の主人公になって、「ぼく」といっている。(小説は、田村自身が翻訳している。)
 そこに書かれることは、したがって「小説」の要約ということになる。
 そのビートルズからは「世界最強の媚薬」を作ることができる。
 「ぼく」は、つまりオズワルド叔父さんは、次のようなことをしている。

まんまと媚薬を製造すると クラスメイトの美女と共謀して
世界的天才の精液を冷凍庫に密閉し 金満家の有閑夫人に高値で売りつけるベンチャービジネスを開始する
指導教官は自然科学の老教授

精液を採取された人物を列記する--
アインシュタイン フロイト ストラビンスキー ピカソ 「蝶々夫人」で有名なプッチーニ プルーストにいたってはペニスがエンピツより細かったと女学生に報告させている

 なぜ、田村は、こういう「語り直し」をしたのだろうか。たぶん、小説の翻訳だけでは物足りなかったのだろう。翻訳をとおりこし、「オズワルド叔父さん」を生きてみたかったのだろう。自分のことばにしてみたかったのだろう。自分のことばにして、「オズワルド叔父さん」を生きるとき、何が見えてくるか。「オズワルド叔父さん」の「肉眼」に何が見えてくるか。

クローンは一九〇三年にH・ウエッバー博士が名付けた遺伝子の結合体。クローンによる最初の生物は蛙。現代ではクローン猿。どんなに厳重な国際的監視下でもクローン人間は誕生する。

近く自然人の芸術は消滅するだろう ソネットが聞きたかったら
アフリカへ行け
新鮮で猛毒のウイールスの群れの
音のないソネット
 
 田村の「肉眼」は、「音のないソネット」を「聞いた」。「見た」のではなく「聞いた」のである。ここにはふたつの「越境」がある。「肉眼」は「耳」ではないのに「音」を聞いてしまう。しかも、それは「音のない音」という矛盾を内包している。たむらは「他人」になることで、そういう領域にまで越境していく。そういう領域にまで、「田村」自身を「破壊」していく。
 「他人」を語ること、語り直すこととは、「田村自身」という「枠」を破壊し、「肉・ことば」になることなのだ。
 「他人」を語るということは、「他人」の「時間」を自分のなかに引き入れることでもある。「他人」の「時間」が、田村ひとりでは体験できなっかたものを感じさせてくれる。田村自身の「枠」を破壊するのを手伝ってくれる。
 「他人」とは、「肉・ことば」の「教授」なのである。



オズワルド叔父さん
ロアルド・ダール
早川書房

このアイテムの詳細を見る