山本美代子『夜神楽』(2) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

山本美代子『夜神楽』(2)(編集工房ノア、2009年04月01日発行)

 山本美代子の「身体感覚」はとても自然だ。まず小さく動いて、それから徐々に大きくなる。そのため動きに不安定さがない。
 「アンダンテ」

直立歩行を始めてから ひとはいつも 首の
あたりが寒い 地熱がこいしくて なずなの
微小な花に目をとめたりする 水溜まりに映
る 空の深さ

 「首のあたりが寒い」というのは、ごくふつうの表現だけれど、この「あたり」という幅のもたせかたが不思議に山本のリズムである。「身体感覚」である。「首筋が寒い」でもいいのかもしれないけれど、それだと「肉体」が限定される。「あたり」というひとことが、「肉体」と「空気」をなじませる。その「なじむ」広がりがあるから「寒い」→「熱」→地熱という動き、首(肉体)→空気(あたり)→地という動きがとてもスムーズになる。あ、山本は、いつもこんなふうに「肉体」を「空気」(世界)のなかでなじませながら生きているのだな、と自然に分かる。だから、地→なずな→花、という動きが自然だし、地→水溜まりが自然だ。そして、そこに一気に侵入してくる空。水の中で地と天が融合し、しかも「浅い」はずの水溜まりが「空の深さ」によって活性化される。
 ただ一方方向へ広がっていくのではなく、その方向と逆、あるいは垂直にまじわる方向へも広がり、世界が立体化する。そして、その「立体」のなかに「肉体」が位置をしめる。その確かさが、とても自然で、とてもいい。

歩くはやさで通りすぎる 今 歩くはやさで
感じる やわらかな純粋 弾む抽象
同じ高さで移動していく こころと身体 ゆ
っくりと運んでいく 刺

 「肉体」の確かな位置があるから「やわらかな純粋」「弾む抽象」もなじむ。「やわらかな」「弾む」のなかに「肉体」のイメージが侵入してきているからだ。「頭」ではなく、「肉体」の手触りのようなものが侵入してきているからだ。
 科学や論文では、こういう「肉体」の侵入は不純物になる。つまり、なんのことかわからない、あいまいな言語の混乱になるが、詩では、この「混乱」が世界の豊かさにつながる。異質なものが(定義不能なものが)ことばに侵入してきて、それが定義不能であるからこそ、その定義不能を超えて何かが動くのである。それは山本のことばを借りて言えば「こころと身体」という「結びつき」そのものである。「こころ」と「身体」ではなく、「こころと身体」という結びついたものが、そのまま動くのである。
 そして、唐突な、



 説明が省かれた、この一語。
 それは「純粋」「抽象」を「こころと身体」で言い直したことばだ。「比喩」だ。「概念」になる前の、つまり「頭」で整理される前の「こころと身体」が、直接とらえた、ことばにならない「状態」(空気)そのものだ。
 「刺って何?」と聞かれたら、私は、それについてどう答えていいかわからない。わからないけれど、わからないからこそ、そのことばが「真実」だと感じる。

 山本の「肉体」が広がっていくのは「空間」だけではない。
 「遠くへ」。その書き出し。

まもなく 遠くへ行ってしまう ひとがいる
ので 時間の堰の 水位が増していく

 山本の「肉体(こころと身体)」は「時間」も「あたり」(首のあたり、のあたり)を自然に引き寄せる。「まもなく」が、なんとも不思議である。「遠くへ行ってしまう」はこの詩では「死ぬ」ことである。その「死ぬ」という現象と、「まもなく」が「あたり」の感覚で融合する。
 うーん、そうか。
 私は、そううなってしまった。
 私は父の死に目にも母の死に目にもあっていないので、その死の瞬間を知らない。兄が死んだときは立ち会ったが、まだ若くて、死そのものがなじみのないものだった。そのときの時間の動きが、よく思い出せない。しかし、そうか、「まもなく」という感じで、時間が「肉体」に近づいてくるのか、それは堰に水がたまるような感じか、と不思議に納得してしまった。

まもなく 遠くへいってしまう ひとがいる
ので 向こう岸からのまなざしが ときおり
入り混じる リンゴは目の前で 四次元の球
体を強固にし 言葉は 意味を追いかけて
迷走をはじめ 脳髄までとどく 水仙の香の
なかで 手の位置 足の置き場所を はじめ
てのように探す

 そして、山本の「時間」は「向こう岸」の「時空間」を引き寄せる。「まもなく」という「あたり」の感覚が、そういうものを呼び寄せてしまう。
 なんとも不思議で、なんとも魅力的である。
 人が死ぬのを「魅力的」といってはいけないのだろうけれど、あ、その、彼岸と此岸が入り混じった「時間」(あたり)を見てみたい、と思わず思ってしまった。
 でも、この感覚は、やっぱりとても強烈なのだろう。
 その後の山本のことばは少し乱れる。「言葉は 意味を追いかけて 迷走をはじめ」が正直で、とても気持ちがいい。そして、その迷走のまま(?)、次の「脳髄までとどく」の主語がわからなくなる。主語は「迷走」する「言葉」? 「意味」? それとも「水仙の香」?
 このわからなくなる感覚がいい。とても自然だ。言葉、意味、水仙の香が融合して、区別のつかないものになる。その実感がいい。山本に「肉体」があるように、「言葉」や「意味」「水仙の香」にも「肉体」があるのだ、と気づかされる。山本の「肉体」は、そういう「肉体」とも交感している。響きあっている。

 これはすごいことだなあ、と、ほーっとため息が漏れる。
紡車―山本美代子詩集 (1979年)
山本 美代子
芸風書院

このアイテムの詳細を見る