長江に計画されている三峡ダム。水没する村。その立ち退き交渉。ドキュメンタリー。
ここに登場する「おかあさん」がすごい。夫は病弱。こどもが二人。とても貧しい。とても貧しいのだけれど、家族を愛している。いまの暮らしを愛している。立ち退きはいや、と最後まで抵抗する。最後は、役人にだまされるようにして(?)家を追われる。
むかし、愛し合った男がいた。けれど父親に反対されて、いまの夫と結婚した。ふつうは恋愛し結婚するのだが、私の場合は結婚して、そのあと恋愛がはじまったというようなことから語りはじめる。流産したことや、堕胎したことなども、「暮らし」として、しっかり語る。
仕事は農業。土地と向き合い、土地と暮らす。そこには土地さえあれば、人間は生きて行けるという思想がある。立ち退きを拒むのも、いま、ここで世話をしている(?)土地とはなれたくないという思いがあるからだろう。別の土地、ではなく、この土地というこだわりがある。
そのことを雄弁に語るエピソード。「おかあさん」が夢の話をする。「いつも古里の夢を見る。いまの土地の夢を見るようになったのは、ここに住んで20年ほどしてからだ。魂は体ほど自由に動けない」。
感動してしまった。
生きるとは、こういうことを言うのだ。自分の体験していることを、しっかりとことばにする。自分で語る。そうすると、そこにおのずと「哲学」が顔を出してしまう。「魂は体ほど自由に動けない」というようなレトリックを「おかあさん」はどこかから学んだわけではないだろう。確かに高校までは卒業しているが、そこに描かれる日々の暮らしに本など出てこない。雑誌や新聞、テレビも出てこない。こどもの「宿題」が出てくるくらいである。けれど、そういう暮らしのなかでもことばは哲学の高みに到達する。自分のことを「正確」に語りさえすれば。
映画は、このことばに呼応するように、土地をしっかりととらえていた。それは肥沃な土地ではない。荒れた土地である。しかし、その荒れた土地を少しずつ耕してサツマイモ(だと思う)やトウモロコシを育てる。ミカンを育てる。野菜、果物は、その手入れに応じて実る。裏切らない。荒れた土地なのに、みどりはしっかり生きている。その、裏切らないものへの愛着があるから、土地を離れたくない。役人の「ことば」ではなく、土地を信じる。
最後に、役人のことばの攻撃にどうすることもできなくて、家を立ち退かざるを得なくなるシーンには涙が流れてしまう。風が吹き荒れる高台で念書を書かされるのだが、そのとき「おかあさん」は、気持ちが昂っていて、どう書いていいかわからない、と役人に助けを求めるしかなくなる。
あ、役人は、「おかあさん」から土地だけではなく、「ことば」まで奪ってしまったのだ。なんという横暴。なんという暴力。「念書なんか、書いたらだめ」とこころの中で叫んでみるが、もちろんスクリーンには届かない。
無念、という気持ちがわいてくる。映画が終わっても、しばらくは席を立てない。最後は「字幕」で「おかあさん」の行く末が語られるのだが、もう一度、あの、強い顔を見たい、もう一度スクリーンに写し出されないものか、と強く強く願った。
いつの日か、また、あの「おかあさん」の強い顔が戻ってきますように。「木靴の樹」の最後で、「ミネク、幸せになれよ」と祈ったように、「おかあさん」の幸せをこころから祈らずにはいられなかった。