『田村隆一全詩集』を読む(82) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

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 「液」の「カイロの猫」は不思議なことを書いている。新潟の女性から絵葉書がとどいた。

絵はがきは
エジプトのカイロ
うちの猫とそっくりの猫
「ネコちゃんにあんまり似ているので贈ります」
と絵はがきの空欄に彼女は書いている

アラビア語の看板と赤いトラックを背にして
ちゃっかり坐っている猫

似ているどころか わが家のネコである
七、八年まえの正月に のっそり家に入ってきて
そのまま 大股をひろげて眠りこけてしまって
猫だって時差に弱いことがやっと分かった
カイロから小さな日本列島の
そのまた小さな村にどうやってたどり着いたのか たぶん

 このあと、猫がジェット機にもぐりこみ日本にやってくることが夢想されているが、この部分をどう読むか。その「絵はがき」の猫は七、八年前に撮影されたものであり、それがいま田村の家にいる、と読むべきなのか。それとも、空間を飛び越えて、「いま」田村の猫がエジプトにも存在すると読むべきなのか。
 私は、「いま」田村の家にいる猫が同時にエジプトにいると読む。同じ「もの」が同時に違った場に存在できないというのは物理の基本的な考え方だが、詩は「物理」ではないし、また田村の「思想」は「いま」「ここ」にある考え方を破壊することにある。

 この「絵はがき」のことばに先行する連のことばが重要だ。

現在は
猫や鳥や魚にはあるが人間にはない
鳥は鳥の中で飛ぶ
猫は猫の中で眠る
人間の中には人間はいない
言葉だけで
人間は社会的な存在になり 言葉の中で
人は死ぬ そのとき
やっと人は
人になるのである

 「現在」(いま)という時間は人間の中にはない。ところが猫や鳥の中にはある。それは猫や鳥にとって、あらゆる時間が「現在」であるということだ。「現在」しかない。存在する時、それはいつでも「現在」である。
 存在する瞬間がいつでも「いま」なら、同じ時間に、ものは別の場に存在できないという論理は成り立たない。「場」の違いを「いま」が超越してしまう。
 エジプトにいるときが「いま」。そして田村の家にいるときが「いま」。時間から、存在を規定するのではなく、存在から時間を規定すれば、私たちが信じている物理の定理は無効になる。存在するあらゆる時間、生きているあらゆる時間が「いま」というのは、いのちの「純粋な」ありかたである。野生、自然のありかたである。(「白昼の悪魔」の「wildとは純粋な「自然」そのもの」という行を思い出そう。)「猫は猫の中で眠る」。そして、「時間」は「猫」のなかに存在する。「いま」という時間だけが存在する。
 人間は、そんなふうには存在し得ない。なぜなら、「ことば」を生きるからである。「自然」「純粋」を生きるのではなく、「ことば」を生きている。「ことば」が「時間」をつくる。「いま」と「いま以外」(過去・未来)をつくる。だから「いま」を生きるためには、「時間」をつくることばを破壊しなければならない。ことばを破壊したときに、人間は「いま」を生きることができる。そして、ことばの破壊は人間にとっては「死」と同じであるから、ことばを破壊し、死ぬことが、人間になる(生まれ変わる)ということでもある。
 田村の「思想」は、ことばで説明すると、そんなふうにいつも「矛盾」してしまう。死ぬことが生きること、という矛盾の形でしか言えないものになってしまう。

 「カイロの猫」にもどる。
 田村はジェット機に乗って日本にやってきた猫のことを書いている。それは、「いま」田村の家にいる猫が七、八年前に田村の家にたどり着くまでの描写と考えることができる。しかし、もし、私が考えているように、いまその猫がカイロにいるのだと仮定したら、田村の書いていることは矛盾している。そして、矛盾しているからこそ、猫はカイロにいなければならないのである。
 矛盾こそが田村のことばの運動の基本なのだから。
 「いま」猫がカイロにいるにもかかわらず、その猫は七、八年前、カイロから日本にやってきたと書くことは、いわば「時間」そのものを破壊することである。
 もちろん、その絵はがきが七、八年前に撮影された写真でできていると仮定すると「矛盾」が消えるが、矛盾が消えてしまっては田村の詩にはならない。
 田村は、「時間」を破壊するために、わざと、「いま」猫がカイロにいると書くのである。田村の家にいて、同時にカイロにいる。そういうことができるのが「猫」である。そういうことができないのが「人間」である、と書くのである。ことばゆえに、それができない、というのが田村の考えである。

 この「カイロの猫」と対になっているのが「液」。その中にも、おもしろいことばがある。矛盾に満ちたことばがある。

白色の脳漿から精液
むろん 赤い血液 青い血液
透明で純粋な唾液 雑菌を繁殖させるにはもってこいの

 「純粋な唾液」と「雑菌」。しかし、「雑菌」と書かれているにもかかわらず、私にはその「雑菌」が「純粋」と聞こえる。そう読んでしまう。「雑菌」は「wild」なのだ。野生であり、本能なのだ。「雑菌」は人間のことなど考えない。ただ「雑菌」として「生きる」ことを「純粋」に考え、一番いい場所を選んでいるだけなのだ。
 ことばは、ことばを破壊しながら、そのいちばんいい場所へ、どうやってたどり着くことができるだろうか。田村の夢には終わりがない。



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