北川朱実「ロバの来る日」、橋本和彦「木の哲学」 | 詩はどこにあるか

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北川朱実「ロバの来る日」、橋本和彦「木の哲学」(「石の詩」73、2009年05月20日発行)

 北川朱実「ロバの来る日」は、ブラジルの村のことを描いている。ロバが本を背中にかついでやってくる。移動図書館である。

とても会いたかった人に会うときのように
大人も子供も
装いを正して木陰に集まってくる

開いた本に木漏れ日があたって
文字が
ゼリービーンズのようにはね

黒いアゲハ蝶が
古い布の切れはしみたいに
少女の肩で休む

 「とても会いたかった人に会うときのように」が美しい。「正装して」ではなく「装い正して」ということばの流れが美しい。そして「文字が/ゼリービーンズのようにはね」の改行がとてもとても美しい。改行があることによって、ことばを探している「間」と、ことばがその「間」の向こうからあらわれてくる新鮮な感じがいい。ことばにならなかったものがやっとことばになった、という印象を引き出す「間」。「間」によって生まれる飛翔感。その「いま」「ここ」という時空間が破られた印象(錯覚?)があるから、次のアゲハ蝶の3行が不思議な世界になる。
 それはほんとうのアゲハ蝶? アゲハ蝶が少女の肩から本をのぞきこんでいるのか。あるいは、ゼリービーンズのように本の中から飛び出してきた蝶が肩にとまっているのか。現実なのか。比喩なのか。
 そこから、ことばが「思考」にかわってゆく。

卵からかえったばかりの雛を
両手で包むようにしてページをくる少年は
ふと顔をあげ
文字を指さして何かを言おうとした

それは
初めて人間が言葉を持つ
瞬間のような表情だった

 いま、少年は、「卵からかえったばかりの雛」そのままに、「人間」に生まれ変わっている。ことばとともに、人間は生まれ変わるのである。
 生まれ変わると、どうなるか。

私は気づいていた
文字を旅して帰ってくると
彼らはすこし無口になることに

日暮れて
私たちの上空を
真珠色に光る蝶の群れが
一すじの川になって渡っていった

 ことばとともに生まれ変わると人は「無口になる」。ことばを知ることが人を無口にする。それは矛盾である。矛盾だから、そこに真実がある。その無口を「肉体」のなかでしっかり吸収し、それから人はやっと話しはじめるのである。そのとき、ことばは初めて「思想」になる。
 北川の書いている「一すじの川」は現実なのか、比喩なのか。私は「天の川」と思って読んだ。ことばを知ったとき、ことばは、それまで見えていたものを、違った形にしてしまう。ブラジルのこどもたちがことばを知った。そして、彼らがことばを知ったということを知って、北川も生まれ変わる。そのとき、「天の川」は「天の川」ではなく、新しいことばで呼ばれることを欲する。その願いに答えるようにして「真珠色に光る蝶の群れが/一すじの川になって渡っていった」ということばが生まれる。
 
 今夜、私は、北川が見た「天の川」が見れるだろうか。見てみたい。そう思った。



 橋本和彦「木の哲学」は「木」をテーマに橋本自身の存在形式の夢を語っている。「木を満たすのはそれぞれの語彙と語法であり」という1行が出てくるが、橋本自身も、自分を満たす語彙と語法をひたすら追求している。

木の表皮が厚く無骨であるのは偶然ではない
気のない面はそれぞれで全く異なっており
一本一本が全く別の生き物とも言える程だが
内面集中度の高さにおいては近似している

 「内面集中度」ということばに橋本の理想が託されている。


人のかたち鳥のかたち
北川 朱実
思潮社

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