たなかあきみつ『ピッツィカーレ』 | 詩はどこにあるか

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たなかあきみつ『ピッツィカーレ』(ふらんす堂、2009年03月12日発行)

 たなかあきみつ『ピッツィカーレ』はことばを追いかけると何が書いてあるかわからない。ひとつのことばからいくつものことばがプリズムで分光された光のように、純粋な形で放射される。そのきらめきに目を奪われて元の形が見えなくなる。つまり、それらの輝きは、もとはひとつの「白」であったということが……。
 たとえば「闇の線」、その(3)。

ふるい、雨
どんな記憶をふるいにかけるにしろ
さほど挫けず雨は網をうつ
デシベルの樽に鈴なりのたがをかける雨
暗視野を裂くそのピアノは衣裳トランクの底のよう
着なれぬストレートジャッケットの黄ばみがぴょんぴょん
闇の線を渡りつめる
ピアノは今にも破裂しそうだが
ペダリングのくるぶしにひそむ各種アンモナイトは
生乾きの回転木馬をなおも上下に反復中

 「ふるい、雨」。「ふるい」は「古い」ということばを呼び覚ます。その呼び覚まされた「古い」が正確であるかどうかは問題ではない。つまり、たなかが意図したことかどうかは問題ではない。「古い」は「記憶」と結びつく。新しい記憶というものもあってもいいから、この結びつきはすこし平凡である。そこに、いわば異質なものが出会った瞬間に炸裂する詩は存在しない。だから、たなかは、その「古い記憶」を「ふるい」にかける。余分なものをふりわける。古いの「網」は次の行の「網」を呼び、さらには「ふるい」のまるい樽のような形、樽をしめる「だが」を呼び起こし、そのふるいからこぼれる記憶のこまかい「雨」へと引き返し、「雨」から「雨音」、そして「ピアノ」へのつながる。「雨音」「ピアノ」という組み合わせも斬新とはいえない。むしろ、比喩の慣用句に属する。だが、この慣用句であることが、こういう詩の場合、重要である。慣用句をはさみ、ことばを安定されながら裏切る--そのときに、詩が、急にあらわれる。

暗視野を裂くそのピアノは衣裳のトランクの底のよう

 雨音→ピアノはさらに分光されて、「衣裳トランクの底」へと細分化される。突然の細分化は、それが何かさっぱりわからない。なぜ、「衣裳トランクのそこ」? そういうわからなさをひきだしておいて、次に、

着なれぬストレートジャッケットの黄ばみがぴょんぴょん

 衣裳→ジャケット→黄ばみ。その「ぴょんぴょん」。離れて存在する無数。それは、やはり雨音。そして、ピアノ。ピアノ「線」。その「破裂」しそうな響き。「ピアノ」の演奏の時の「ペダリング」。そこから、そして、「くるぶし」。あ、「記憶」のなかの、あの「くるぶし」である。気にかけている人がピアノを弾いている。その「くるぶし」が見える。--そんなことは、たなかは、いちいち書いていないが、そんなことのいちいちを私は想像してしまう。そして、「くるぶし」の形から「アンモナイト」のうずまき……。連想の、連想による、連想のための「分光」。
 いったい何を見たのか、わからなくなる。--これは、詩にとって不幸なことか。そうかもしれないけれど、そうではないかもしれない。
 私は、こういうことばの前では、そのことばの運動の全部を追ったりはしない。書いているたなかには申し訳ないが、そのことばをすべて追ってみても、というか、すべてを追ってしまえば、結局、それはさまざまにぶつかりあい、「分光」まえの「白」にもどってしまう。私の貧弱な視力では。
 で、どうするか。
 私は、こういう詩は、その文脈を忘れて読む。文脈を忘れた時に、ふっと浮かび上がってくるもの、思い出のようにふいに襲ってくるものを、詩と判断して読む。この詩集はずいぶん以前に田中からいただいたものだが、長い間感想を書かなかったのは、ようするに忘れるのに時間がかかったからである。
 長い時間をかけて、ことばが闇に沈んでいく。すると、その沈んでいくことばを逆にたどって浮き上がってくるものがある。雨の日。雨にあわせてピアノを弾いている。そのペダリング。そのときの「くるぶし」の不思議な生々しさ。
 ストレートジャッケットというのは、どういうものか知らない。もしかすると、それは男性の服装かもしれない。けれども、私は、「くるぶし」ということばを受け止めるために、それが男性のものであっては、ちょっと楽しくない。だから、ストレートジャケットが消えるまで、感想を書くのを待っていたのだ。
 今、それを書いてしまえば、また逆戻り……かというと、そうでもない。
 いったんストレートジャケットを消して、誤読してしまえば、それは、もうたなかの手を離れた世界だからである。私はいつでも「正しい読み」などしたくはない。「誤読」だけをしたいのである。作者(詩人)の真意など、つまらない。「真意」など、知ったことではない。
 ある詩について、「肉体」を感じられないと書いたら、実際の「肉体」のことを書いたのです、と言われたが、そんな「真意」など、ことばのなかに感じられなかったら、私にとっては「真意」ではない。「真意」がつたわらないように、書く方が悪い。それが「誤解」であっても、つたわってきたものが、いつでも、読者にとって「真意」である。
 脇道にずれてしまった。
 たなかの詩にもどる。
 脇道にずれた瞬間に、私は、ふと「ストレートジャケット」というのは、レコードのジャケットの種類のことかなあ、などとも思ったが、「衣裳」とあるから、きっと違うね、とまた、そのことばを消した。
 たなかの詩には、ことばがたくさん出てくる。そして、それが1行の中でイメージを完結するのではなく、複数の行にわたって動いてゆく。その動きが残像のようにゆらめく。さまざまな読み方があるだろうけれど、私は、そういう残像が記憶のなかで少しずつ薄れ、少なくなっていくのを待っている。ときには、いくつかのことばを意識的に消してゆく。そして、そこに残った少ないことばとあらためて交流する。

 引用した詩のつづき。

水たまりをかたどる風の接線うえで
ぐるぐる発行する汗の粒は孔雀の羽根だった
歯ブラシ一本残された路上で
夜来の雨はふたたび跳びはねる
その片脚は痛みを矢印に着地をはかり
毛深いもう一本はもっぱら横滑り

 「歯ブラシ」は消した方が雨の街角の風景がすっきり浮かぶ。「水たまりをかたどる風の接線」というのはとても美しい。けれど、私は、その美しさを消して、「歯ブラシ」を残したい。それから「片脚」「毛深い」も。いや「脚」と「毛」を。
 これだけ書けば、私が何を考えているかはわかると思うけれど、「くるぶし」を中心に、「アンモナイト」のように螺旋を描く雨の記憶--その螺旋というか、中心へ中心へとひっぱる何かを、そんなふうに読みたいという欲望が、私にはある。


 誤読とは、結局、作者の「真意」ではなく、読者にとっての「真意」を語ってしまうことなのだろう。
ピッツィカーレ―たなかあきみつ詩集
たなか あきみつ
ふらんす堂

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