「待合室にて」には未消化のことばがある。人間の<物>性について考えつづける田村が、語ろうとして語りきれていない奇妙なことばがある。<物>の対極にあることば。「時間」。
最後の方の部分。
「うがいをしてください」
ぼくは治療酔うの寝椅子からとびおりると
「時間」のなかに帰って行く
「つぎの月曜日の午後三時においでください」
ここに書かれる「時間」は単なる「日時」である。だが、田村の書きたいのは「日時」ではない。「日時」ではないのに、「日時」から書きはじめるしかなったのは、田村の「時間」思想が<物>思想ほど鍛練されていないということだと思う。
田村は、診察室から待合室に戻り、「大型の画報」にふたたび見入る。そして、
飛行機事故もホテルの大火災もテロも暴動も
飢えも貧困も
多色刷りの絵にすぎない
ここには「時間」が欠けている
「時間」が欠けているなら
「時間」から脱出することも追跡されることもないわけだ
白い空間と
縞模様のラテン音楽
ここに書かれている「時間」は「日時」ではないか田村は「日時」ではない「時間」について語ろうとしているが、「日時」からはじめたために、奇妙にずれてしまっている。「時間」が未消化のまま、放り出されている。
飛行機事故もホテルの大火災もテロも暴動も
飢えも貧困も
多色刷りの絵にすぎない
ここには「時間」が欠けている
もし、この「多色刷りの絵」が「時間」をもっていたら何になるか。それはきっと<物>である。<物>から「時間」が欠け落ちると、それは「絵」になってしまう。
「時間」は<物>のなかにあって、<物>はまた「時間」のなかにある。<物>は「時間」を超越して全体的な<物>、つまり詩になる。そのときの「時間」というのは「日時」ではない。<物>の運動の領域のことである。運動にはかならず「時間」が必要である。運動することによって「時間」は広がる(数えられるものになる)が、同時に「時間」は運動のなかで凝縮もする。運動が加速すると「時間」はどんどん短縮する。<物>は時間のなかではげしく運動し、時間そのものを無限からゼロに還元し、それはゼロになった瞬間に無限になる。
そういう矛盾→解体→生成が「時間」の本質だが、田村は、この詩ではまだきちんとことばにできていない。ただ「時間」というものを抜きにして、人間存在の思想は語れないと気づき、それに手をかけている--という感じである。
最終連に
ぼくは「時間」を所有するために
あるいは「時間」に所有されるために
という2行がある。
この「あるいは」は、所有することとと、所有されることの間に区別がないことを証明している。無時間と無限が<物>の運動によって、ひとつになる。
だが、田村は、まだそれをどう書いていいのかわからない。だから、「笑い話」のようにして詩をとじている。
ぼくは「時間」を所有するために
あるいは「時間」に所有されるために
ゆっくりとソファから立ち上がり
何気なくふり返ると
待合室の隅でうずくまっていた
暗緑色の<物>が
車輪のごとくはげしく回転しながら
治療室のなかに飛びこんでいった
<物>とは絶対的な人間、詩人、詩であったはずだが、ここでは単なる凡人として描かれている。凡人の比喩になっている。<物>がそういう状態になっているのは、実は「時間」がまだ「思想」になっていないためである。思想になっていない「時間」に影響されて、<物>も思想以前に引き戻され、カリカチュアされているである。
すべては、未消化の思想が引き起こしたことばの乱れである。
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