「物」は、さらに多くの詩に登場する。「冬休み」。
おれは「物」だから
夏休みはいらない
人類には夏はつらいことだろう
七月八月の二カ月くらいは
人類はたっぷり夏休みをとるべきだ
「物」と遊べ
「物」から学べ
「物」の意味
その光りとリズムが分ったら
人間存在の悲惨と滑稽が身にしみるだろう
これは、田村は「物」となって、「物」と「交感」しているという宣言である。「交感」とは「物」の「その光りとリズムが分」かることである。「交感=分かる」である。そして、その「分かる」は「意味」が「分かる」ではない。「光りとリズム」。その色と音が「分かる」である。色と音をつかまえるのは「意味」(観念)ではなく、「肉体」である。「眼」(肉眼)であり、「耳」(肉耳、と呼んでおこう)である。「肉眼」「肉耳」が「物」と「交感」する。そのとき田村は「人類」ではなく、「物」になる。
「所有権」にも、「物」としての田村が出てくる。
おれは<物>だから
六十歳の<物>だから
とっくに減価償却はすんでいる
そして<物>であることを再定義して、次のように書く。
おれは<物>だから
詩そのものだ
おれの言葉は所有権者どもの言葉では
ない
<物>が「詩」である。<物>とは「肉体」(肉眼・肉耳)であり、それは「物」と「交感」し、「物」を「分かる」存在のことである。詩とは「物」との「交感」のことであり、その「交感」を記録したことばが詩であるから、そのことばは「所有権者どもの言葉では/ない」。こういうときの、「ない」の1行は、強調である。
ことばであるかぎり、それは次のような誤解を招くかもしれない。
所有権者どもには
おれの言葉が
悲鳴に聞こえたり
鼻唄に聞こえたりしたかもしれないが
だが、それは錯覚である。詩は、所有権者の理解を超えた存在であるか。詩の絶対性、超越性を田村は、次のように書いている。
おれの舌は
あらゆる国境を 砂漠を
七つの海を 五つの大陸を飛び越えて
地の果て
海の彼方まで
どこまでものびていって
おれは
<物>の言葉だけで
喋りつづけているのさ
これは、詩の、絶対的超越性の宣言である。
おもしろいのは、この絶対的超越性を田村は「奴隷」という、いわば否定的な人間のありようと結びつけていることである。否定されるものと結びつけて、崇高なものを語っている点である。
この逆説、矛盾のありかたこそ、田村が矛盾→止揚→発展という形の運動をめざしていないことを明らかにしている。田村のことばがめざしているのは矛盾→解体→生成である。
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