『田村隆一全詩集』を読む(31) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

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 「ジム・ビームの思い出--恐怖にかん照る詩的エスキス」のなかに、ことばと「他者」に関する表現が出て来る。田村の詩「恐怖の研究」を英語に翻訳する。サム君と「恐怖」の訳語をどうするかで話し合った。サム君はhorrorと訳し、田村はfearにこだわった。

辞典をめくってみたら
類語がたくさんでてくるではないか
dread fright alarm dismay terror panic……
力は他者に向かって水平に働く
その力が科学とその組織をつくり出し
平和も戦争も死語にしてしまった
水平に働く力は
人間の言語を死語にするのだ
美しい死語に
言語はたちまち抽象化されて
記号になる
この過程にもしfearがあるとすれなら
人間の五感ではとらえられないところに
言語は結晶化されて
透明になって行く そして記号が記号を産み
その増殖作用によって
ぼくは「ぼく」でなくなるのだ
その結果として
 horrorがあらわれる
 horrorの効果があらわれる
 horrorの効果を精密に計算する集団があらわれる

 「他者」と「水平」。
 私はこれまで、田村は「他人」に触れることで田村自身を洗い直す、と書いてきた。
 ここに書いてある「水平」は、「洗い直す」力とは逆である。洗い直す代わりに、田村を(人間を)傷つけない「回路」をつくる。「他人」を、そして「自分」を傷つけないで関係をつくるためにさまざまなことばが選ばれる。それは入り組んだ「回路」を水平にひろげていく。その水平に広がることばの回路のなかで、ことばはことばの力を失い--つまり、自分自身さえもかえる、そうすることで世界をかえるという力を失う。そういうことを「抽象化」と呼んでいる。

 では、「他人」が田村を洗い直す--と私が書いてきたことは、間違っていたのか。「他人」とは田村を洗い直さないのか。

 たぶん、こういう「定義」は、もっと精密にしなければいけないのかもしれない。「他人」「他者」ということばを田村がどんな文脈でつかってきたかを丁寧に分析しなければならないのかもしれない。私が、「他人が田村を洗い直す」と書いた時、私は「他人」という表現を私自身の「辞書」のなからひっぱりだしてきた。私が「他人」というときと、田村が「他者」という時は、その指し示すものが違うのである。

 先の引用につづく部分。

力が自己にむかって垂直に働くとき
ぼくは夢からさめる
あるいは
あたらしい夢
創造的なfearの世界に入って行くことになる

 「水平」と「垂直」。「他者」ということばと結びつけてみるとき、「水平」が「他者」であり、「垂直」は「他者ではない」--というわけではない。「他者」のなかには「垂直」の力として働きかけて来るものと、「水平」の力として働きかけて来るものがあるということである。「垂直」の力として働きかけて来るものが「他人」である。それは田村を洗い直すのだ。「洗い直す」とはそれまでの「水平」の回路が取り払われ、もし田村が「他人」と関係を構築するなら、あたらしい回路を自分の奥深くから(垂直に掘り下げた「いのち」の原点から)もういちど再出発しなければならない、ということを意味する。
 この瞬間のことを、田村は、とても興味深いことばであらわしている。

ぼくは夢からさめる
あるいは
あたらしい夢

 「あるいは」。「夢からさめる」と「あたらしい夢」へ入っていくこと--それは矛盾である。ところが、田村は、それを矛盾と考えていない。なぜか。どちらも、自分を洗い直し、自分ではなくなるという運動、ベクトル(→)だからである。
 いま、水平にひろがっている回路を叩き壊し、あたらしい回路を、人間の「未分化」のいのちからの回路をつくる(創造する)ことだけが「真実」なのである。それが、どっちの方向を向いていても、水平ではない、水平を叩き壊すという運動として同じなのである。そして、それは確立されものではないから、だから「あるいは」としか言いようがないのだ。

 ことばを「流通するための回路」、「水平の道」として「他者」と共有するのではなく、そういう言語を破壊し、まだどんな回路も持っていない「他人」と直接出会う。そういう出会いのために、いま流通している言語を破壊する(徹底的に批判する、批評する)行為としての詩。現代詩。
 この詩は、ある意味で、田村の「現代詩宣言」でもある。

 恐怖はfearかhorrorか。--その「決着」はここにはない。田村は、ここでは、ことばが「他者」とのあいだにどんなふうにして存在するか、田村自身が求めていることばがどんなものであるかをあらためて書いているだけである。そして、その考えのきっかけとなったのは、「サム君」という田村以外の人間であった。そういうきっかけとなに人間は「他人」である。しかしまた、その「他人」は田村の言語の冒険を否定する「他者」ともつながっている。
 「他者」はあるとき「水平」の力として働き、あるときは「垂直」の力をひきおこすきっかけともなる。ことばというものが、自分以外の人間の存在を前提としているからである。自分以外の人間を変えるためには(社会を変えるためには、社会に流通する言語を帰るためには)、自分が変わる以外にない、自分自身の言語を変える以外にない--この遠回りの、逆説の運動。逆説の運動としての現代詩。「他人なんかどうでもいい、自分の、いまつかっていることばをかえたいだけ」というしかない逆説としての運動。逆説としての現代詩。

 いつでも、矛盾でしか言い表すことのできないものがある。



田村隆一全詩集
田村 隆一
思潮社

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