瀬尾育生「はじめて選考に参加して」は第39回高見順賞の選考経過について語ったものである。高貝弘也『子葉声韻』についてかたった部分。
高貝詩集の受賞について、私は異議はない。文字・音・像の秘儀に参入する、資質に根ざしたまっすっぐで清潔な探求の達成点として、これはだれにも文句の付けようのない詩集である。だがあえていえばと、クリティカルな位置に立つものに対しては毀誉褒貶があるのがふつうなのに、人々がこれほどに、文句の付けようがない、という感じを持つのは、この詩集がどこかで、いわば工芸品のような受け止め方をされているからではないか、という印象が残った。
この批評に、私は、ほっとした。不思議な安心感を覚えた。
私は高貝の詩が好きである。何度も感想を書いた。今回の詩集も感想を書いた。けれど、私は今回の詩集には違和感を覚えた。それは、もう、高貝の詩集はおもしろい、と言わなくてよくなってしまった、という違和感である。それまでは、高貝の詩集はこんなにおもしろい、ことばの動きがこんなにおもしろい、と宣伝(?)したくてしようがなかったが、今回はそういう高ぶりを感じなかった。そして、それは高貝の作品のせいではなく、実は、私自身の変化だったと気がついた。
瀬尾のことばによって、自分自身が変わってしまっていることに気がついた。
私は、高貝のことばを、ことばの運動というよりも、完成された工芸品--完璧な伝統工芸品と見るようになってしまっている。
それも、琳派の工芸品をみるというよりも、そういう場から距離をおいて、ひっそりと息づいている、いわば「わび・さび」のような、静かな工芸品である。豪華なもの、目を驚かすようなものから距離を置いているけれど、その距離の置きかたで、逆に目を洗い流すようなもの。どこかに置いてきてしまったことばの、静かな静かな息づかい。その静かさで、静かさにどれくらいの静かさの音があるかを聞かせる--というより、耳の感覚を洗い流し、目覚めさせるような息。息そのものの、ゆらぎ。
このとき、息は、「生きる」の「生き」であり、生きる「領域」の「域」であり、その「域」をさししめすことのできる「粋」なるものの本質である。
--そんなふうに見る視点が、私のなかに出来上がってしまっている。
私のなかにできあがっている視点を叩き壊して、もう一度高貝を読んでみようという気持ちに、私はなれなかった。そして、そこにある高貝の詩集に、とても満足してしまった。ああ、いいものを読んだ。いいことばを見た。という印象が残ったのである。
もちろん、そういう印象を残す詩集は非常にすばらしいのであるが、そのすばらしさに対して、私は、どこかで、ことばを放棄してしまっていた、ということに気がついた。
高貝のことばに対して、私はどんなことばで向き合えるか--そのことを、瀬尾のことばは、唐突につきつけてきた。つきつけられていることに気がついた。
*
どんなことばで向き合えるか。「子葉声韻」の一部が「樹木」に抜粋されている。
遠浅の子が まだここに、
ぬれ濡(そぼ)っている
未生以前の、父母のむくろをさがして
たとえば、この1連。「遠浅」と「ぬれ濡っている」の響きあいに、私は、悲しみと安心を覚える。「遠浅」だから子どもは安心してそこにいることができる。そして、その子どもを安心して見ることができる私がいる。これが荒磯でぬれ濡っているのだったら、荒い波のしぶきを被っているのだったら、安心はできない。危ない、と叫んでしまう。悲しみへとこころは動いては行かない。ま
た、「ぬれ濡っている」という音のなかにある貧しさ(?)、暗さのようなものが「まだここに」の「まだ」とも響きあうのを感じる。そしてそれが、死んでしまった父母のむくろをではなく、「未生以前の、父母のむくろ」という虚を悲しみを事実としてささえているのを感じる。
「そぼる」という音のなかにある「ぼ」が「ふぼ」の「ぼ」と重なり、また私には「むくろ」の「む」とも「ろ」とも、いや「む」と「ろ」の響きにも重なる。さらに私の耳に聞こえた感じを言い直すと、「む・く・ろ」というときの音の「く」は私のなかでは「K+U」ではなく、「K」のみである。「むくろ」を私は「MU・K・RO」と発音する。あるときは、「K」は沈黙のなかへ消えてしまう。「む(沈黙)ろ」なのである。その音は「ぼ」ととてもよく響きあう。「ぼ」だけではなく「そ・ぼ・る」という音と通い合う。
こうした音の操作を、高貝はとても意識していると感じる。音の響き、「むくろ」の「く」のように沈黙のなかに消えていく音を正確に聞き取り、再現する繊細な感覚--そういうものを日本語の動きそのもののなかからていねいにすくいだしているのを感じる。
--だが、こんなふうにあらためて感想を書いてみて、やはり、高貝のことばを「工芸品」のように見ていることに気づいてしまう。どんなふうに読めば、高貝を「工芸品」から切り離し、「いま」「ここ」と結びつけることができるのか。
そんなことを、瀬尾から大きな問題として提起されたようにも感じた。
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