正午
ぼくはジャムナ河とガンジス河の
合流点に出た
巨大な河床が砂漠のような地模様をつくりながら
古い城壁まで
はてしなくつづいている
痩せた犬と土でできている人間が
原色の布にくるまってうごめいている
人間がうごめいているのではない
土がうごめいているのである
「人間」を「土でできている」といいきってしまう田村。そして、「人間がうごめいているのではない/土がうごめいているのである」と断言する強さ。
人間をそんなふうに断定するのは非礼なことかもしれない。そうかもしれない。しかし、田村がもし田村自身をも土でできていると感じていたらどうだろうか。その断言は、深い共感をあらわしていることにならないだろうか。
私は、共感を感じる。
土となって生きている人間。土から生まれてきた人間。--そういうとき、土とは何か。土とは、いのちがまだいのちになるまえの「場」なのだ。そこにはエネルギーだけがあり、形はまだないのだ。
ジャナム河は暗緑色
ガンジス河は褐色
そして二つの大河が合流すると
河は聖なる腐敗色に変る
土は不定形となる
私は、いつも、ここで震える。
河を描写しているのか、いのちを描写しているのか。合流しているのはほんとうに河なのか。田村とインドが合流して、そのとき田村と宇宙が合流しているという気がする。もちろん田村という人間とインドという大地がそのまま合流できるわけがない。田村という人間と宇宙がそのままの形で合流できるわけがない。もし、田村が「人間」の「形」をしたままであるなら。しかし「人間」という「枠」を失ってしまっているとしたらどうだろう。「人間」でなくなっていたとしたらどうだろう。
たとえば「土」に。いや、「泥」に。どろどろの、腐敗した色の「泥」。形をもたない「泥」。「不定形」の「泥」に。
私の勝手な想像ではあるのだが、田村は、ジャナム河とガンジス河を見た瞬間から「人間」ではなくなったのだ。「泥」になったのだ。河床の「泥」に。「泥」に共感してしまったのだ。「泥」に対する共感が、田村から「人間」の「形」を洗い流した。二つの河が田村から「人間」の「形」を洗い流し、田村を「形」のない「泥」にしてしまった。
「泥」になってしまった田村は、「泥」を見る。「土」ということばを田村はつかっているが、私は、それを「泥」と誤読する。
うごめいている土には
わずかに諸器官が残っていて
手も足も燃え尽きてしまってはいるが
嗅覚と触覚と聴覚と味覚は
地中のバクテリアによってかろうじて養われている
「人間」以前、「いのち」以前--そういうものが、ここにはある。手足という「形」がなくなっても、嗅覚などの「感覚」は残っている。
この感覚--いくつかの感覚の中に「視覚」がない。そのことが、また、私を震えさせる。「視覚」はたぶん、「人間」のなかでもっとも発達した感覚、最後に完成した感覚なのかもしれない。それに対して「嗅覚」「触覚」というのは、なまなましいままの、原始的な(?)感覚という感じがする。未分化の、定義のあいまいな感覚という気がする。それはたとえば、その感覚のためのことばを数え上げればわかると思う。「視覚」は「色」の数の多さだけでもずいぶん「分化」した感覚だということがわかる。「聴覚」も「音楽」をみるとよくわかるが、記述方法が確立されている。ところが「嗅覚」は? 「触覚」は? 「視覚」「聴覚」に比べると、驚くほど記述方法が確立されていない。つまり「未分化」、原始的(?)である--その原始的なものと「泥」(土)がむすびついて、そこに「いのち」の未分化なありようを浮かび上がらせる。「人間」は「バクテリア」の状態で、「泥」(土)のなかに生きている。
インドという巨大な「他人」が田村を、そういう状態にまで洗い流したのである。
その紅い土には真紅の布が頭からおおいかぶさっていて
小さな顔の部分だけが
わずかに空気にさらされている
盲目の少女
その土は少女の形をしていて
唇のようなものがたえまなく開閉しながら
リズムのないリズム
意味のない意味
政治的危機の情報からも
宗教的陰極の感情の喚起からも
もっとも遠い通信を発信しつづけている
「盲目の少女」--それは「視覚」以前の、視覚が未分化の人間の象徴である。いや、原型である。到達点である。その未分化の「いのち」そのものに対する共感が、ここにはある。
文明のあらゆるものからもっとも遠く、未分化の「いのち」そのものが、「いのち」をむきだしにして、「いま」「ここ」に存在している。その存在と向き合うために、田村はことばの力を借りて、田村自身を「泥」(土)にしたのである。
新選田村隆一詩集 (1977年) (新選現代詩文庫) 田村 隆一 思潮社 このアイテムの詳細を見る |