金井雄二「走るのだ、ぼくの三船敏郎が」、細野豊「花・もうひとつの顔」 | 詩はどこにあるか

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金井雄二「走るのだ、ぼくの三船敏郎が」、細野豊「花・もうひとつの顔」(「独合点」97、2009年、02月02日発行)

 金井雄二「走るのだ、ぼくの三船敏郎が」は映画で見た三船敏郎をことばで描写している。ことばで、とわざわざ書いたのは、ことばで書かないと見えないものが書かれているという意味である。

走るのだ、三船敏郎が。剣を振り回しながら、雄叫びをあげながら。眉毛の一本一本に神経が入っていて、そのどれもがビンとしている。額にも神経はそろりそろりと生えそろっていて、そこには電流が走っている。光がどこからか流れて来るが、それは剣からとびだしているのではなく、眼の底から発射されているのだ。

 「雄叫びをあげながら」までは肉眼で見える描写である。「眉毛の」からは、肉眼では見えない。ことばが三船の肉体をみつめはじめるのである。ことばが三船の肉体をみつめる。そのとき、ことばは「肉眼」になる。
 そして、「肉眼」になったことばが、その「肉」の共通感覚で、さらに三船の肉体に広がっていく。
 走って走って走って、三船は、飯屋に飛び込み、そこで飯を書き込むのだが、そこからは「肉眼」になったことばは、さらに進化して、食欲になる。いや、食欲というような抽象的なものではなく、胃と、喉とになってしまう。あらゆる肉体の細部になってしまう。

まず咽喉が上と下に動く。と思うが同時に、口が開かれ、飯が投げ入れられる。次から次に、白米は口の中に放り込まれる。丼のめしがあからさまに少なくなっていく。額には滲み出るものが会って、だがそれを拭おうとはしない。咀嚼する口元が、動く唇が、ぎらぎらする眼が、動きつづけている。咽喉がクッと一回鳴って、また再び動きはじめた。

 もう、こうなってしまうと、ことばはことばではなくなってしまう。ことばは、三船敏郎になってしまう。

走るのだ、三船敏郎よ。誰かのもの、じゃなくって、ぼくの三船敏郎の。動き続け、走り続けた三船敏郎の。走るのだ、ぼくの三船敏郎が。

 金井は「ぼくの三船敏郎」と書いているけれど、少しかわっている。正確には「ぼくの三船敏郎の。」と書いている。この「の」は何? ここには省略されているものがある。「ぼくの三船敏郎の描写(ことば)」なのだ。ことばが動き続け、走り続け、「神経」になり、食欲になり、肉体の細部、咽喉や唇や手足になり、三船敏郎になってしまって、そのことばが走るのだ。ことばになってしまった結果として、それは金井の肉体そのものにもなって、そして走るのだ。
 この疾走感は、とても美しい。



 細野豊「花・もうひとつの顔」のことばは、金井のことばのように「肉体」そのものになってしまわない。少し、離れている。距離がある。その少しの距離をしっかりとみつめて動いている。

もしもぼくが蝶の舌を持っていたなら
もっと深く深く入って
あなたの愛を吸いつくしただろうに

ぼくの舌は短くて平たいから
花びらたちを丁寧に嘗め
もどかしく花心のあたりを這いまわるだけだ

もう少しというところで
遠ざかってしまう詩の女神よ それでも
ぼくの閉じた目の中に崇高なものが見えてくる

 金井のことばが「肉体」であったのに対し、細野のことばは「比喩」である。比喩とはここにないものを利用して、いま、ここを語ることである。いま、ここにない--その不在の真空の力を借りて、対象を自分の中に取り込む。そして、吐き出す。その呼吸が比喩である。
 そこには「肉眼」はない。あるのは、肺--胸、そしてこころである。精神である。「ぼくの閉じた目の中に崇高なものが見えてくる」が象徴的だけれど、目を閉じる時、精神の目が開かれる。肉眼を拒絶して開かれる目。そこに見えて来るものは、手で触れるもの、肉体で確かめることのできない抽象的な「崇高なもの」である。それは、どうしたって、「肉眼」から、「肉体」からは遠くなる。

このぼくの舌で 味わいつくしているようで
遥かな乳房のように いつも
遠くありつづけるものよ

 最終連にも3連目と同じ「遠い」ということばにつながる表現が出て来る。「遠い」、その距離の隔たり、「肉体」と「精神」のあいだの距離の遠さ--それが細野の世界であることがわかる。





にぎる。
金井 雄二
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