「クレイジー・ハウス!」
中年のウエイターが車窓を過ぎる建物に
指をさす
ぼくは二日酔で
大西洋のエビとヒラメをさかなに
金色のウイスキーを飲みつづけている
「クレイジー・ハウス?」
ぼくはおなじテーブルの作家夫妻の顔を見た
「きっと精神病院のことよ」
夫人が白い歯をみせて笑った
「クレイジー・ハウス」に対応する日本語が「精神病院」であるかどうか、私はわからない。知らない。どんなに有名な病院だとしても、わざわざ車掌が指さして精神病院を紹介するとも思えない。
田村が、夫人のそのことばに納得したかどうかもわからない。
けれど、そのことばから、この詩ははじまっている。理解でなきかったことばから田村の詩ははじまっている。そのことが、私にはとてもおもしろく感じられる。
詩はことばである。ことばそのものが詩なのである。
「夜間飛行」のなかで、田村は「魔の山」の「純粋な」ということばと「マリア・マンチーニ」という葉巻の名前から出発して詩を、そのことばを動かしていた。知っていることばでも、知らないことばになる。「単純な」は誰でも知っていることばであるけれど、トーマス・マンが青年に対して「単純な」ということばをつかったとき、それは田村には、とても新鮮な、つまりしらないことばとして響いてきた。そして、その新鮮な響きがあったからこそ、ほんとうに知らない「マリア・マンチーニ」もそのことばと同じように強く記憶に残ったのだ。知らないことばだけが、記憶に残るのだ。
「クレイジー・ハウス」。そのことばを田村は知らない。それがたとえ「精神病院」であるとしても、田村は、そのことばを知らない。知らないことばが、田村の知っていることばを動かすのである。なんとか、その知らないことばを、知っていることばとつなげようとして、ことばが自然に動きだすのである。
引用した1連につながる詩は、そのことばは、単純に車窓の風景を、そこから見たものを描写しているだけのように思えるが、もし「クレイジー・ハウス」ということばに触れなかったら、そして「精神病院」ということばに触れなかったら、車窓の風景は違っていたに違いない。
荒野も描写されなかっただろうし、3連目の青年も描写されなかっただろう。
やっと「グリーン・リバー」という小さな町にさしかかったら
その小さな町は死んでいるのだ ただひとり
上半身はだかの青年がツルハシをふるって
三階建ての廃屋を壊している
あの灰色の家を壊しおわるまで
いったい何年かかるというのだ?
犬もいない
死んでいる小さな町をすぎたら
塩の湖と
砂漠だ
ここに書いてある風景は、ぜったいに「観光ガイド」には出てこない風景である。それは「流通」しない風景である。田村のことばは、そういう「流通」しないことばとなって、世界と出会っている。それはほとんど、その世界がはじめて出会うことばだろう。だから詩なのである。世界はいつでも存在する。ことばもいつでも存在する。しかし、世界とことばが出会うということはほんとうはとても少ない。出会って、はじめて、ふたつのものが存在するようになる。ことばが世界に存在形式を与えるのだ。
田村のことばは、世界に存在形式を与えるために動きはじめるのだ。次の連。
その夜は
列車のなかの三軒の酒場を飲みあるいた
作家夫妻はコンパートメントに閉じこもってしまったから
ぼくひとりだけ
まるでさっきの上半身はだかの青年のように
金色のツルハシをふるいつづけながら
アメリカ語とスペイン語と
葉巻と香水が渦をまいている
薄暗い酒場を飲みあるいたのさ
死んでしまった小さな町
混濁している「グリーン・リバー」
ぼくは
ぼくの独房にたどりつくまで金色のツルハシをふるいつづけ
世界に存在形式を与えこと--それは破壊と同じ作業だ。
田村は、ツルハシだけで家を壊していた青年そのものになって、ことばをつかって世界を破壊する。アメリカ語、スペイン語、そして日本語。ことばが衝突して、そこで世界が、はじめて姿をあらわす世界が、ことばとともに生まれる。
その具体的な世界を田村は書いてはいない。書けない。それは、ただひたすら破壊されることで、瞬間的に誕生するだけのものである。それを「流通」することばにのせてしまえば、それはもう詩ではなくなる。ことばではなくなる。
田村は、ただ、ことばがどこで動いたかだけを書いている。
先へ先へとすすみながら、ことばは、過去を掘り起こす。次々とあらたしい何かにであって、アメリカ語、スペイン語、そしてたぶん日本語も交えて世界と向き合いながら、その瞬間瞬間に、過ぎ去った町、「グリーン・リバー」とツルハシの青年があらわれる。
詩とは、そんなふうに、時間的には未来に進むことと、過去を掘り起こすことが同時に行われるのだ。そうい矛盾した方向のなかで、未来でも過去でもない時間--もちろん永遠などといううさんくさい時間でもなく、ただただ「いま」としか呼べない瞬間をビッグバンのように破壊し、同時に誕生させるのだ。
田村のことばの運動の佳境--そういうものを、この詩に私は感じる。
田村隆一詩集 (現代詩文庫 第 1期1) 田村 隆一 思潮社 このアイテムの詳細を見る |