大西若人「なぜ体だけ写したか」 | 詩はどこにあるか

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大西若人「なぜ体だけ写したか」(「朝日新聞」2009年03月18日夕刊)

 大西若人は大変魅力的な文章を書く。私が大西若人を知ったのは、写真や絵の紹介記事(朝日新聞)だが、新聞の署名だけで名前を覚えたのは彼だけである。
 03月18日の夕刊には濱谷浩の「田植女」を紹介している。田植えする女性の、首から下を写した写真だ。顔は写っていない。そのことについて大西は書いている。

濱谷浩の作品は、時代を刻印する記録性を強く備えていた。
 だから、富山県の泥沼同然の田んぼに胸までつかって田植えする過酷さを記録するなら、女性の顔までとらえる方法もあっただろう。苦痛にゆがむ表情や疲れ果てた顔が撮れたかもかもしれない。
 そうしなかったのは、喜怒哀楽を見せる表情は雄弁であると同時に、そこでは意味が完結しかねないからだろうか。

 「喜怒哀楽を見せる表情は雄弁であると同時に、そこでは意味が完結しかねない」はとても鋭い指摘だ。有無をいわさず納得させられる。あ、どこかでこの文章を流用して(まねした)何か書く機会があればなあ、とさえ思う。言い換えれば、「書きたい」という気持ちを誘う文章である。
 大西の文章にもし問題があるとすれば、それはたぶんここにある。
 大西が紹介している作品を一瞬忘れてしまう。大西の文章に酔わされ、文学心(?)が頭をもたげてくる。
 作品に誘われてことばが動いたというより、ことばが作品を呼び寄せたような、不思議な印象が残る。

 そして、そこから疑問もうまれてくる。
 「苦痛にゆがむ表情や疲れ果てた顔が撮れたかもかもしれない」はほんとうだろうか。過酷な労働(田植え)はつらい。疲れる。それは誰もが想像できる。
大西の文章は、想像力をきちんと型にはめ込み、きれいに動かしてくれる。そして、その想像力の自然な動きが、「喜怒哀楽を見せる表情は雄弁であると同時に、そこでは意味が完結しかねない」という形而上学的文章に昇華する。その動きがあまりにも美しいので、事実を踏まえているのかどうか疑問になってくる。
女性の顔はほんとうに「苦痛」や「疲れ」た表情だったのか。
農作業には不思議な楽しみもある。ものを作る楽しみ、好きな連れ合いと一緒に田んぼにゆく楽しさ。疲れながらも、そこには喜びもあったかもしれない。そういう「想像力」を大西の文章は排除しているかもしれない。
 言い換えると、大西の美しい解説を読むと、その瞬間、鑑賞が完結してしまいかねない。そこに大西の書く文章の問題がある。