驚きがことばになるまで--その回路、驚きが、いくつものことばを辿って、ことばをさがしながらさまよう。そのさまよいをどこまでていねいに描くことができるか。詩の出発は、たぶん、そういうところにある。ことばをさがす--知っていることばをつなぎながら、自分なりのことばの回路をつくるというところに。
北原千代「水の交わり」はエレベーターを描写するのに「水」ということばをつかったところから、独自の回路をとる。
透明な水をたふたふゆらし
まあたらしい靴がのぼっていきます
水がエレベーターに乗っているなんて!
夕陽を筒いっぱいにつめこんだエレベーター
「なんて!」と自分で驚いてしまっては、詩は逃げていくのだが、その逃げいてくものを北原はがんばって追いかけていく。そこがおもしろい。
「水」ということばをつかったために、以後、世界が「水」を中心にして様子をかえていくのである。
空中庭園のまんなか
噴水が虹色に回っています
芝生に小鳥が来ています
イチジクの堅い実
枝に毛虫が来ています
イチジクの木の根っこ
交わる水と水
音さやかに
混ざると水は何色になりますか
うすい藍色とうすいバイオレットに分かれ
どちらもやっぱり水のまま
うすい藍色のアダムは靴をはき
心臓をだいじそうに抱えて立ち上がりました
驚いている芝生のうえで
うすいバイオレットは水たまりの姿勢で
うしろすがたの赤紫の夕陽に手をふっています
蒸発するまで
たぶん心臓になんらかの問題をかかえる連れ合いとひさびさに外出してきたときのことを書いているのだと思う。シースルーエレベーターにのって空中庭園へ来た。そのときシースルーエレベーターは「水」を積んでいるように見えた。そのエレベーターに乗る時、ふたりは「水」になる。「水」にまじる。それでもやっぱり、それぞれの「色」をもっている。独立している。独立しているけれど、おなじ「水」として触れ合っている。ふたりはもちろん、世界のすべてと。芝生さえ、そのとき、「水」の一種である。「水」とつながっている。
連れ合いアダムが藍色で、北原イヴはバイオレット。イヴはひとりで立って歩くアダムを「水たまり」のようにしずかに横たわった姿でみつめている。水平に--は、たぶん垂直のものはアダムの障害になりかねないからだろうけれど。
とてもやさしい。
もしかすると、私の誤読かもしれない。ふたりの外出は、私の夢想かもしれない。けれど、その夢想は私をやさしい気持ちにしてくれる。
「水」を見るために、シースルーエレベーターを見に行きたい、という気持ちにしてくれる。
詩は、ふたりが夜になって空中庭園から地上におりてくるところまで書いているが、その最後が、また非常に余韻がある。
ああ、雨のにおいです
「水」が「雨」を呼び寄せたのだ。「雨」そのものではなく「におい」ということろに、深い「肉体」の余韻を感じる。
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