萌沢呂美『空のなかの野原』ほか | 詩はどこにあるか

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 萌沢呂美『空のなかの野原』(あざみ書房、2009年02月11日発行)に、「植木鉢」という作品がある。その1連目が印象に残った。

空が
こぼれそうに咲いている
あふれ出て滝になる

 2行目の「こぼれそうに」が新鮮だ。季節が変わる。冬から春へ。空が新しくなる。そのときの、おさえきれないひろがりが「こぼれそうに」。「こぼれる」ということばに、こんな使い方があったのか、と驚く。
 さらに、「咲いている」から、「あふれ出る」「滝になる」という変化も楽しい。
 「空が/あふれ出て滝になる」だけでもおもしろいと思うが、間に「こぼれそうに咲いている」という別の動きがあるために、冬から春への空の変化の、「ひとつ」ではとらえられないよろこびのようなものが乱反射する。
 萌沢のことばの魅力は、この乱反射にある。
 ただし、そのことを萌沢が自覚しているかどうかは、よくわからない。引用した1連には、実は4行目がある。4行目によって、ことばは落ち着くが、その落ち着き方が私にはおもしろくなかった。だから、おもしろいと感じたところまでの引用にとどめた。



 友澤蓉子「冬のメッセージ」(「まどえふ」12、2009年03月01日発行)は、ことばを「遊ぶ」という自覚をもって書かれた作品である。

ふと
ふれる
ふれあう先端

冬の朝
ふたつの死と生が満ち欠ける

 行の冒頭に「ふ」という音を置いてことばを動かしていく。こういうとき、どうしても、そこに「現実」が入り込んで来る。この詩でいえば、4連目。

芙美の家族
2つのサボテンの耳もつ老犬に死訪れる

 「芙美」「老犬」「死」--「芙美」というのは新しく生まれたいのちの名前なのだろう。一方に新しい誕生があり、他方に親しんできたものの死がある。
 それをみつめながら、それでもことばを「遊び」のなかへ解放してゆこうとするこころがある。それが「遊び」であることを自覚しながら、それでもことばを動かしてゆこうとする。

ふくらみすぎたことばの
風船が割れる 老犬の死は

芙美の身代わりだよ などと
降り積もる


ふと信じる
ふと信じない

ふふふ

 この作品も、実は、このあと1行ある。省略して引用する。友澤はその1行を書くことによって作品を完成させた。それは作品を「とじる」ということに似ている。「とじる」と書いたひとは安心する。けれど、読むひとは、がっかりする。ちょうど、友人の家までたどりついたのに、玄関先でぴしゃりとドアをとじられたように。