「眼の称讃 敬愛をこめて滝口修造氏に」という作品。
生きている線だけを見てきた
息たえんとするもの
死に行くものの線だけを見てきた
あなたの眼が
物に憑かれたとき
物はあなたの眼をのぞきこむ
かぎりなき優しさをこめて
生きている線は
いつかは死ぬだろう 死ななければ
あなたの眼に見られた物の
復活はない
物によってのぞきこまれたあなたの眼の
蘇生はない
ぼくはいま
かぎりなきdelicateな
逆説のなかにある
あなたの眼はあなた個人のものではない
光りが走り
線と色彩がほとばしる
あなたの その動く手が 手そのものが
あなたの眼だ
1連目。「あなたの眼が/物に憑かれたとき/物はあなたの眼をのぞきこむ」。ここに書かれている相互性。眼がものを見るとき(憑かれるとは、逃れることができないような状態で引きつけられるように「見る」ということ、「見る」の強調形であるだろう)、物の方でも眼を見つめかえしてくる。相対するものが「見る」というベクトルのなかで一致する。それは方向が違うけれど、同じ運動である。方向が違うことを取り上げれば「矛盾」である。しかし、田村はこれを「矛盾」とは考えない。むしろ、強い結びつきと考える。それは「相互性」ということかもしれない。互いが行き来するのだ。往復するのだ。裕往復の一つ一つの運動はその方向性をとらえれば、眼から物へ、物から眼へと対立・矛盾するが、繰り返すとき、それは矛盾を超越する。それが「相互性」ということである。
2連目は、その「相互性」を、もう一度言い直したものである。生と死と復活(蘇生)は一方的な運動ではない。何度も往復する。そこには「相互性」がある。その相互性には「から」が共通のものとして、存在する。「から」が呼び起こす「運動」のベクトル。
ある水平の状態に「もの」と「眼」があると仮定する。それぞれの「視線」(ベクトル、矢印「→」)は相互に行き来する。そして、それは相互に行き来しながら衝突するのではなく、行き来することで水平という方向を逸脱し、たとえていえば、垂直に離脱する。それは上昇かもしれないし、下降かもしれない。どちらであってもいいが、いまある方向とは別の次元の方向へベクトル(→)そのものとして動いていく。そうして、その方向は、私は便宜上「垂直」と書いたが、ほんとうは、全方向、つまり「球」(円)の方向として可能なのだ。球(円)の方向にベクトルの可能性があるから、それを「別次元」への逸脱ということができるのである。そこにあるのは、ほんとうは「方向」ではなく、可能性なのだ。
全方向とは、矛盾である。全方向なら、そこには方向はないことになるからだ。
書けば書くほど、そこに書かれていることを、「流通言語」で言い直そうとすればするほど、何も言えなくなる。何も言ったことにならなくなる。--それが田村の「矛盾」、止揚ではなく、発展ではなく、融合と私が呼ぶものであり、それを田村は「逆説」と言う。
それは常に「逆」のものを含まないかぎり、言い直すことができないのである。
「別次元」のことを、3連目で、とても興味深いことばで田村は書いている。
あなたの その動く手が 手そのものが
あなたの眼だ
「手」はもちろん「眼」ではない。しかし、田村は「手」が「眼」であると書く。「手」と「眼」が描くという運動のなかで「融合」しているのである。そして、それは止揚→発展ではなく、逆の方向の動きなのだと私は思う。「手」が「眼」の機能(?)を獲得して動くのではなく、「手」と「眼」の区別がない状態、「手」と「眼」が肉体として分離する以前の状態にもどって、「手」以前、「眼」以前のエネルギーとして動くのである。
「手」と「眼」の融合は、発展ではなく、いわば先祖返り、未分化への後退であり、そういう未分化のものだかが、新しいものを産み出す、そこから生まれてくるものだけが新しい「いのち」なのである。古いもの(?)、未分化のものが新しい--という「逆説」が、ここにある。
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