柏木麻里「蝶々」は、柏木スタイルとも言うべき空白意識した作品である。こうした作品は1篇だけ読むのは難しい。ぼんやりした印象はあるのだが、それをどう語っていいかわからない。
1連目。「1. 」という番号が振ってあり、その番号の振り方を含めて「空白」をつくりだしている。
1.
きこえることと
きこえないことの
あいだを
こわしてゆく
蝶
「あいだを」というのは、何の間か。「きこえること」と「きこえないこと」の「あいだ」であるのは自明のことなのかもしれない。でも、それは、どこにある? そこには「あいだ」などないのではないか。「きこえる」「きこえない」は接続している。ぴったり、くっついている。鏡の裏と表のように、分離してしまっては、その分類は成り立たない。「聞こえる」とき「聞こえない」ということはない。「聞こえない」とき「聞こえる」ということはない。
そういう密着したものを、「あいだ」ということばで「こわしてゆく」。それは、「あいだ」をつくりだすというのに等しい。ほんらいありえない「あいだ」を壊すとは、その「あいだ」を、まず意識のうえで認識するということだから。
ありえないものを、あるものとして、形に、ことばに定着させる。それは意識の運動、認識の問題だから、ほんらい「肉眼」には見えない。
その見えないものを、あえて、柏木は視覚化している。空白によって。
空白は、柏木にとって、意識の領域である。意識の広がりをあらわす。空白であるから、それはほんらい見えない。その見えないものの広がりを、柏木は、ちりばめたことばで明らかにする。空白は見えないけれど、ことばは見える。空白は、ことばとことばのあいだにある。ことばにはさまれた部分が空白である。それは、ことばが両脇(?)におかれないかぎり、存在し得ない。
「きこえること」と「きこえないこと」の「あいだ」と同じように、それは密着している。「聞こえる」のあと、「聞こえない」ことがあって、その後、もう一度「聞こえる」ことがあったとき、はじめて「聞こえない」ことがある。(逆も同じ。)
そういう分離不能のもののあり方を、柏木は、壊して見せる。分離不能のもののあいだにも、何かがある、と提示して見せる。
その、ほんらい見えないもの(柏木がことばにしないかぎり見えないもの)を、柏木は、「みなもと」と呼んでいる。
詩は、つづいていく。
2.
蝶
蝶
先に
ゆくね
3.
蝶
みなもとだけでできている
あらゆる存在は、密着している。存在には表裏がある。その表裏をつくりだすちらかが「みなもと」である。今回の詩の「空白」は「蝶」とともに生まれた。だから、「蝶」を「みなもと」と呼ぶのである。
柏木の詩は、視覚を多用している(空白をはっきり見せている)点で絵画的であるということもできるが、あくまでもそれは「的」であって、絵画ではない。色と面を使ってではなく、ことばで構成されているのだから。
とはいいながら、ここには濃密な言語と絵画の融合がある。柏木は視力の強い人なのかもしれない。
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