『田村隆一全詩集』を読む(9) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

 (8)の補足として。

 「再会」の「驟雨!」という1行。それは唐突にあらわれた1行である。そして、それはことばの発見でもある。存在、ものではなく、ことばの発見。世界には存在していたけれど、まだ田村の「肉体」に結びついてなかったことばの発見。
 詩人は、あることがらを発見し、それをことばでつかみ取るのではない。詩人とは、ことばを発見し、それに存在を投げ込むのである。ことばが先に発見されて、そのあと、そんざいがやってくる。物理の世界で言えば、まず論理を発見し、そのあと実証するようなものである。何の世界でも、そういうことがある。論理(ことば)に存在が追いついて来るということが。

僕には性的な都会の窓が見えます

 最初に「性的な都会」(性的な都会の窓)があるわけではない。田村が「性的」ということばをつかったあとで、都会は「性的」になる。ことばは存在をかえるのだ。
 これは、一見すると、理不尽なことかもしれない。存在にあわせてことばが変わるのがふつうかもしれない。しかし、よく考えれば、存在にあわせてことばが変わるということはない。ことばがあって、存在のなかから、あたらしい可能性が引き出されるということしか起こり得ない。それは科学・物理の世界も同じである。素粒子が3つから、4つ、6つへと増えていくのは、そういう論理が先にあるから増えていくのである。論理が6つという可能性を引き出し、それにものが追いついて来るだ。論理が先行しないかぎり、6つの素粒子は存在し得ない。なぜなら、それは「肉眼」では見えないものだからである。見えないものを見えるようにするためには、存在に先だち、ことば、論理が必要なのだ。
 


田村隆一エッセンス
田村 隆一
河出書房新社

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