どこでお逢いしましたか
どこで どこでお逢いしましたか
死と仲のいいお友だち わたしの古いお友だち!
書き出しの主語は「わたし」である。ところが2連目。
僕には死火山が見えます
僕には性的な都会の窓が見えます
僕には太陽のない秩序が見えます
と、突然、「僕」が登場する。ふつう、どんな作品でも「わたし」を主語にしたものは「わたし」のままかわらない。「僕」という表現がでてきても、それは「会話」のなかでのやりとりなどであって、地の文では「わたし」のままである。
この「僕」はしかし、すぐにまた「わたし」にかわる。それだけではなく、ふたたび「僕」にもなる。
2連目の4行以降は、次のように進む。
わたしの手のなかで乾いて死んだ公園の午後
わたしの歯で砕かれた永遠の夏
わたしの乳房の下で眠つている地球の暗い部分
どこでお逢いしましたか どこで
僕は十七歳の少年でした
僕は都会の裏町を歩き廻つたものでした
驟雨!
僕は肩を叩かれて振り返る
「あなた 地球はザラザラしている!」
「わたし」と「僕」との関係はどうなっているのだろうか。
印象的なのは、私の耳には「僕」のことばの方がスピードある。「わたし」のことばはゆったりしているのに対し、「僕」のことばはとても速い。理由のひとつに、「僕」の行は動詞をもっているのに対し、「私」は動詞をもっていないことである。1連目の、引用しなかった部分に「わたしはどこかであなたに囁いたことがある」という動詞をもった行があるが、2連目では「わたし」と動詞は呼応していない。
「僕」は動くのに、「わたし」は佇んでいる。立ち止まっている。
ただそれだけではなく、ことば、その音そのものも、「僕」の行でははじけるような輝きがある。「死火山」「性的」「太陽」「秩序」といった漢字熟語が強く響く。一方「わたし」の行では「乾いた」「死んだ」「砕かれた」「眠つている」「くらい」とことばがゆっくり動く。
わざとつくりだされた対比のようなものが、ここにはある。
この詩は、「わたし」と「僕」は別人であり、その二人が対話していると読むこともできるが、私には、その二人はほんとうはひとりのように思える。
ひとりのなかの「わたし」という人間と「僕」という人間が交代し、「わたし」になり、「僕」になり、そのたびにことばの動きがどう変わるか、それを調べながら、楽しんでいる感じがする。
「わたし」は「僕」に対して「あなた」と呼びかけ、その呼びかけに答える形で「僕」は「わたし」から離れ、軽快にはじける。
これも、ひとつの対立、矛盾である。
そういう構造を、田村は「わざと」つくりだしている。そして、その対立のなかで世界を見つめようとしている。
あるいは、こんなふうに考えることもできる。
「再会」にとって不可欠なもの--それは「過去」である。「いま」とは違う時間である。かつて、そこにも「いま」はあった。かつての「いま」と、いまここにある「いま」が会うときが再会であり、それは常に「違うもの」と「同じもの」をぶつけ合わせながら動く。
存在の中には普遍のものと変わりつづけるものが同居している。--それを、ひとりの人間のなかで動かしてみることもできる。
だが、こんな読み方は、詩にとってはどうでもいいことかもしれない。
驟雨!
僕は肩をたたかれて振り返る
この「驟雨」の突然の美しさ。それまで、どこにも存在しなかったことばが突然あらわれて、「肩をたたく」ということばのなかで、現実感を獲得する。雨も肩をたたくからね。この、ふいの変化が、すべてを融合させる。再会の一瞬を、「いま」でありながら、「いま」ではないどこかへひっぱっていく。
「わたし」「ぼく」の関係は? などという、まだるっこしい意識をさらって、視界を洗う。意識がことばになるのではなく、「もの」がことばになり、ことばが「もの」になる。
意識の運動を超越した何かが、ここにはある。「驟雨!」ということばのなかにある。この詩は、その「驟雨!」ということばのためにこそ書かれたという感じがする。
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