「十月」。
危機はわたしの属性である
わたしのなめらかな皮膚の下には
はげしい感情の暴風雨があり 十月の
淋しい海にうちあげられる
あたらしい屍体がある
十月はわたしの帝国だ
わたしのやさしい手は失われるものを支配する
わたしのちいさな瞳は消えさるものを監視する
わたしのやわらかい耳は死にゆくものの沈黙を聴く
どのことばにも疾走感がある。そして、そのことばにはひとつの特徴がある。2種類のことばの出会いが「疾走感」を演出している。つまり、2種類のことばが「わざと」出会わされ、衝突させられ、そこにいままで存在しなかった「声」を生み出している。
2連目が特徴的である。
身体・肉体を修飾することばは、「ひらがな」で書かれ、やわらかい。「やさしい」手、「ちいさな」瞳、「やわらかい」耳。これに対して、その響き、眼の印象とは対極にあることばがぶつけられる。「支配する」「監視する」。肉体のやわらかさ、弱さに対して、なにかしら固いことばがぶつかる。ふさわしい漢字熟語がないときは「沈黙を聴く」と、動詞の前に漢字熟語をもってくる。その衝突のあいだには、「失われる」もの、「消えさる」もの、「死にゆく」ものという緩衝材がある。そこにはていねいに漢字が1文字ずつ割り振られている。
ここに書かれているのは「意味」ではない。イメージでもない。ことばの運動の仕方である。
やさしい身体・肉体→はかないもの→漢字熟語。この運動を、1連目のことばで言い直せば「はげしい感情の暴風雨」になる。いや、言い方が逆だった。「はげしい感情の暴風雨」を2連目で、田村は、そんなふうに書き直しているのだ、というべきだった。
何を書くのかほんとうはわかっていない。「危機」と書き「属性」と書き、「はげしい感情の暴風雨」ということばにたどりつく。そのあと、そのことばが動いていく先に、やさしい身体・肉体→はかないもの→漢字熟語ということばの運動があるのだ。
きのう私は、田村のことばの運動、矛盾したものの衝突は、やがて矛盾を超越する。それは止揚ではない、と書いたが、その運動が止揚ではないというのは、ある「発展」をめざしているわけではない、と言い換えることができるかもしれない。
弁証法(止揚の論理)は、発展を前提としている。いわば矛盾は「予定調和」の内にはいってしまっている。
しかし、詩のことばは「発展」を前提としていない。むしろ、発展を破壊してしまうことを前提としている。発展へ向けて動く何か、未来を(?)形成しようとするときの、その「イメージ」(形成された何か)を破壊しようとして動く。言い換えれば、発展、形成ではなく、根源へ、混沌へむけて動き、その混沌のエネルギーそのものになろうとしている。ものが生まれる前の、「いのち」そのものになろうとしている。
矛盾は、詩にとって必然なのである。
定まった明瞭な形をめざしているのではなく、何も定まっていない状態、何にでもなりうる「自由」なエネルギーをめざしている。「わたし」を発展させるのではなく、「わたし」を「わたし以前」に引き戻そうとしている。「わたし」を「わたし」たらしめているものはいろいろあるが、たとえば社会的な位置というものもそうかもしれないが、そういう「わたし」である前の、だれでもない「いのち」の状態を復元しようとしている。
「死者を甦らせる」ということばが「四千の日と夜」に出て来るが、死者を甦らせるというのは、たんに生きている状態にするということではなく、彼が生まれる前の状態にするということである。
「十月の詩」の1連目、「淋しい海岸にうちあげられる/あたらしい屍体がある」の「屍体」も同じである。それは甦るべき死者である。それはすべての存在を、生まれる前に引き戻すための道しるべなのだ。死者を破壊し、いのちを死へとむけて動かしたすべての止揚を(弁証法を)拒絶する。ただ、純粋な「いのち」に還るための北極星のようなものなのだ。
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