暗黒街の5人男たちの友情を描いている。少し変わっているのは、その5人が3人と2人に分かれ、敵対する組織に属することである。3人組の方のひとりが対立する組織のボスを銃撃したために、2人から命を狙われる。仲間の方の2人は彼を守ろうとする。
という話はどうでもよくて、この映画では銃撃戦をいかにかっこよく見せるか--ということに力点が置かれている。缶コーク(?)を空中に放り上げ、それが落ちて来るまでのあいだに銃撃戦でけりをつける。そのことを5人とも「命題」にしている。そして、どんなときもびくびくしない。堂々と構えて銃撃戦に臨む。そんなことは実際にはありえないだろうけれど、そういう実際にありえないものを形として美しく見せる。俳優たちの銃撃のときの肉体がとても美しい。また、ドアや机などを防御壁につかったり、逆にそれを攻撃の道具として投げつけたりするシーンにも、肉体の疲労が少しも見えず、とても美しい。映像をスタイリッシュに見せる。「かっこいい」とはこういうシーンのためにあるのだ、という気持ちになる。快感である。
ところが。
その快感のでどころ(?)が、ちょっとイヤでもある。こういうありもしない映像をスタイリッシュでかっこいいと思う気持ち、その快感はどこから来ているのか。
ジョニー・トー監督はこの映像のあと、ちょっと一休みという感じで(あとで、もういちど激しい銃撃戦--クライマックスがある)、4人の逃避行を描く。5人の対立の原因となっている1人が死に、残りの4人が「裏切り者」として狙われる、逃げるのである。そのとき、金塊1トンを強奪するという話を思い出す。そして、そのあと「金塊1トンは重いのか」(4人ともメートル法を知らない。香港が中国に返還される前なので、ポンドか斤の単位しか知らない)から問答がはじまって、「愛1トンは重いのか」「疲労1トンは重いのか」というようなことばがつづく。「……は重いのか」と統一されたスタイルで、現実から感情、肉体までをぱっと切り取る。このことば、詩みたいで、とてもかっこいい。「現代詩」に拝借したいくらいである。
この詩に拝借したいようなかっこよさ、そのことばの「わざと」繰り出されるかっこよさと、先に書いた銃撃戦のかっこよさが、ぴったり重なるのである。現実にはありえない(無意味な)運動。その運動の主体は、「肉体」(銃撃のアクション)と「ことば」(現代詩まがいのせりふ)と、まったく違ったものなのだが、「わざと」という点でぴったり重なるのである。そして、それは何といえばいいのだろうか、一種の「抒情」なのである。「抒情的」な「わざと」なのである。ことばが「抒情的」でるあるのはいいとしても、銃撃戦も抒情的であっては、なんだかみっともない(?)と感じてしまう。抒情ではなく、鍛えられた超人的な肉体だけが可能なアクションならいいけれど……。
言い換えると。
たとえば、4人が超人的に走る、飛ぶ、というようなアクションをしながら銃撃し合うのならいいけれど、そうではない。彼等の銃撃戦は、狭い室内で行われる。そこでは人間は走るという行動をとらなくていい。隠れる(銃弾を避ける)にしても数メートルと動かない。それは投げ上げた缶が落ちるまでという時間が象徴しているように、いわば「短距離競走」のリズムなのである。短距離競走をスローモーションで見せるリズムなのである。現実の動きを微分し、その一瞬一瞬を美的に整えて見せているだけであって、そこではほんとうは肉体は苦悩していない。あるアクションを、たんに視点をかえて見せただけなのである。この「わざと」は、あきる。あきてしまう。
映画のアクションには、それが嘘とわかっていても、最近の「007」や「ボーン・アルティメイタム」のように、広い空間を主人公が全力で走りつづける「持続」的な広がりが必要なのだ。空間と時間を超人的に動き回り、観客の「肉体」に働きかけて来ないと意味がない。価値がない。スタイリッシュな映像で「頭」にだけ働きかけて来るアクションでは、役者が「肉体」をもっている意味がない。あの「肉体」(あの顔、あの背の高さ、あの足の長さ、あの筋肉の鍛え方)がかっこいい、という印象、特権的肉体を見せつけないアクションは「抒情」に過ぎない。快感は、完全に錯覚に成り下がってしまう。
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