井上瑞貴「雨が聞こえているのか」、藤維夫「眼の空」 | 詩はどこにあるか

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井上瑞貴「雨が聞こえているのか」、藤維夫「眼の空」(「SEED」18、2009年02月10日発行)

 井上瑞貴「雨が聞こえているのか」は「き」の音、母音「い」の音が印象に残る。

遠くから見える木々が立っている
それきりの踏切を父子は横切る
影になって
ふいに腕をからめてくる子どものちいさな情感には
さらに遠くの木々が立っている
雨が聞こえているのか

 実在の「遠くから見える木々」と、子どもの「情感」のなかの木々。そのふたつの木々のあいだで音が響きあい、音楽になるように、くりかえされる「き」、それと母音の「い」が楽しい。
 ただ、この音楽を井上が意識的に書いているのかどうか、私にはよくわからない。

影になって

 この唐突な、揺らぎを拒絶した1行は、どうしてなのだろう。次の1行が長いから、そのまえに短く息を吐いて、その分だけ吸い込む息を多くした--そのための準備?
 私の耳には、この1行がなじまない。
 次の1行をゆったり響かせたいのなら響かせたいで、「影になって」という短さで辻褄をあわせるのではなく、弱音で長く、低音で長くという方法はとれなかっただろうか。
 もし、低音で長く長くうねる響きだったら、最後の部分、

聞こえているのか
私たちのてのひらには
一度だけ結ばれた記憶に降る雨が
このときも聞こえているのか

 この「てのひら」の感じとしっかりつながるのになあ、と思った。音が揺らいで、肉体のなかを通る。それにあわせて、記憶が肉体になる。そういう予感がするのだけれど。



 藤維夫「眼の空」は視線の動きが「春」を感じさせる。素早くて軽い。そして、ちょっと冷たい。あたたかい風と冷たい風がまじって肉体を刺激するときの、春独特の印象がある。

早朝 詩が行ってしまう
どことてない眼の空
遠くまで追って行く
波の声につづいて
切り立った崖を登りながら

 「眼の空」とは不思議な言い方である。空を見ている、その眼。その眼と空が一体になる。一体になるから、どんな距離でもすばやく動くのだ。どこまで行っても、そこは「眼」なのだから、移動に時間がかかならい。そういう速さがこの詩のことばを動かしている。
 そして、それが一体であるから、どんなに遅れても、やっぱりそこは「眼の空」なのだ。遅れたつもりでも遅れることができない。
 対象と眼との距離がなくなる。
 もう、そうなってしまうと、見えないものを見ないかぎりは、何も起きない。その不思議な感じを2連、3連とことばが動いていく。
 


坂のある非風景―詩集
井上 瑞貴
近代文芸社

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