木村恭子「冬至」 | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

木村恭子「冬至」(「くり屋」41、2009年02月01日発行)

 木村恭子「冬至」の後半にひかれた。

清掃奉仕の日程表は やはり手渡そうと思った

井上さんの家に着いた
娘さんがなくなってから
井上さんは姿を見せない
みんなも 井上さんのことを口に出さない
夏からこっち 黙って郵便受けに入れてきた
物静かな井上さんは パーマも伸びて
私を見ると玄関で何度も頭を下げる
えんよえんよ
来んでも別にかまわんのよ
元気ならそれでえんよ じゃあ又ね
極東の女わめいて後 逃げるように退場

もう救急車も行ってしまい
葉を落とした高い樹の下には 誰もいない

井上さんごめんね
何か違うことを
今日は
あなたと話したかった

 「極東の女わめいて後 逃げるように退場」とは木村自身のことである。自分のことを他人のように書いている。実際、このとき木村にとっては「わたし」は「他人」なのだ。
 ほんとうは井上さんにきちんと声をかけたい。清掃奉仕の日程表を「手渡し」、なにごとかをきちんと言いたい。けれども、言えない。それは、どうしてだろうか。わかってしまうからである。ことばをつかわなくても、井上さんの「思い」がわかってしまうからである。その「わかっている」ことときちんと向き合えることばがない。
 わたしたちはいつでも、ことばをもたない。ことばは、いつでも遅れてやってくる。
 「口に出さない」のは「わかっている」ことを、みんなが共有しているからである。「わかっている」けれど、それはことばでは共有できない。
 それは木村にとって「他人」である。いや、正確に言うならば、わかりきるくらい「わたし」である。どうしようもないくらい「わたし」である。それを「他人」にしてしまういたいのだ。「他人」にして、自分から引き剥がしてしまいたいのだ。「極東の女」と呼ぶことで、「他人」にしてしまいたい。そして、そういう「他人」を「劇」にしたててしまいたい。
 「退場」ということばがつかわれているが、これは必然である。
 「劇」のように、わかっているのにつたえることばがない「わたし」を劇の登場人物として「退場」させたいのである。いま、ここにいる「わたし」、井上さんに対してうまくことばをつたえることができない「わたし」を「他人」として、この世界から「退場」させたい。「えんよえんよ/来んでも別にかまわんのよ/元気ならそれでえんよ じゃあ又ね」を現実のことばではなく、「劇」のなかのことばにしてしまいたいのだ。

 「劇」がおわる。失敗した「劇」がおわる。そして、あとに、ああすればよかった、こうすればよかったという思いだけが残る。

井上さんごめんね
何か違うことを
今日は
あなたと話したかった

 誰にも聞かせることのできない、後悔。それが、美しい。ことばは、いつでも遅れてやってきて、こころをととのえる。