リッツォス「手でくるんで(1972)」より(10)中井久夫訳 | 詩はどこにあるか

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訊問の後    リッツォス(中井久夫訳)
    
脅えた顔がこわばり、髪が乱れて、
シャツが破れ、肉に打ち身が出来て--。奴等は彼に
ベルトを返した。腕時計を、黒い櫛を。
長い卓子に忘れたものだ。彼は受け取る。どう身につけたものか。
分からなくなった。ベルトを? 時計を? 櫛をどこにつけろというんだ?
彼は自分の身分証明書を眺める。「ルカス」と言ってみた。
もう一度自分に言い聞かせた。「ルカス」。目は伏せたままで--。
時計を腕にはめた。のろのろと。(卓子がいけない。
むきだしで暗い。隅の一つなんどは引っ掻き傷)。
ベルトもつけた。しめた。廊下に出ても
まだ締め続けてる。古い便所が匂う。
排水管が漏る。給仕がウフェニオンで壜を集めてる。
番兵の声が下の明かり溜まりで聞こえる。もう一度言ってみる、
「ルカス」と。外人に外国語で言うみたいだ。夜になってた。
通りでは明かりがこっちに向かって来る。博物館の庭でも--。



 訊問の後、世界はどんなふうに見えるのだろう。ここに書かれてあるような、訊問というより、いくぶん拷問も含まれるかもしれないような追及にあったあとは。
 リッツォスはここでも、「もの」を大切にあつかっている。「もの」のもっている材質、それがもっている「時間」をクローズアップでとらえる。ベルト。腕時計。櫛。そういう小さなものをアップでとらえたあと、映画で言えば、カメラを引いてテーブル全体を映し出す。そして、とまどう男の全身を映し出す。
 自分の体なのに、自分の体にぴったりあわない。ベルトを何度もしめつづけるのは、彼のからだがやせてしまっているからだ。だから、とうぜん腕時計もぴったりとはこない。
 訊問室を出たあとも、彼には世界がまだ「もの」の分断された集積にしか見えない。「世界」は一続きのひろがりにはならない。声、ことばすらも、自分から離れていってしまっている。
 最終行の、

通りでは明かりがこっちに向かって来る。

 が、非常にてまなましい。光はもちろん動かない。それでも、向うから近づいてくるように感じられる。脅迫感がまだつづいている。肉体に残る脅迫感が、世界を分断したままなのだ。