リッツォス「棚(1969)」より(2)中井久夫訳 | 詩はどこにあるか

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眠りの再構成    リッツォス(中井久夫訳)

夜だった。大きな石膏の塊が天井から剥がれて寝台の上に落下した。身体を横たえる余地がなくなった。鏡も割れていた、粉々に。回廊の石膏像は煤をかぶっていた。指で触れられない。勝手に愛の姿態を取らせておけ。大腿にも膝にも唇にも掌にも黒い染みがついていた。水道、電気、電話が切られて何ケ月にもなっていた。台所の大理石板の卓子の上に、煙草の吸いさしの傍で大きなレタスが二個腐りつつあった。



 この詩も一種の「聖」と「俗」の取り合わせである。最後の「腐りつつあった」が「俗」にあたる。ただ、この作品では、「レタス」の前に登場する「もの」がそれぞれ「いのち」をうしなったものであるだけに「俗」の印象が弱い。全体が「死」のイメージにおおわれているため、衝撃が少ない。つづけて読んでいて、意識が覚醒する感じがしない。遠心・求心がない。
 それでも、やはり「聖」と「俗」なのだと、私は思う。
 「石膏」「鏡」などは無機物である。それらは腐ることがない。「レタス」だけが腐るのである。腐らないものが「聖」。腐るものが「俗」である。この詩の中では。