谷川俊太郎「無名の娘」 | 詩はどこにあるか

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谷川俊太郎「無名の娘」(「現代詩手帖」2009年01月号)

 詩を書く男を題材に詩を書いている。「締め切りをひかえて詩を書く男は机の前に座った」ではじまるその作品の中で、男は「若いきれいな娘」を登場させ、車を走らせる。小説や物語のように。彼女の前には「際限なく四方へ広が」る草原の一筋の道。男は、「彼女の行く先を決めてやらねばならない」と考えている。
 その、後半。3連目。

自分は涙を流さずに彼は娘に涙を流させる
彼女の心の深みに物語が生まれようとしているが
彼は風になびく娘の髪の匂いと
男物のシャツの下の乳房のふくらみに気を取られる
どこにあるのだろう「現実」という名の幻は
四輪駆動車が土埃をあげて遠ざかって行く

 「主役」の「娘」はどこかへ消えてしまう。「娘」をどこかへ走らせようとしていたはずなのに、男はそのことを忘れてしまう。「物語」はどうでもよくなって、「娘」そのものへと関心が移っていく。「物語」から逸脱してしまう。自分でつくりだした「娘」なのに、その乳房が気になる。
 この、逸脱の瞬間が詩である、と私は思う。男は書こうとしていたことがらを忘れ、ふいに、目の前の「現実」(という名の幻、と谷川は書いているが)に、深く深くかかわってしまう。
 書くはずだった「物語」は車のようにどこかへ消え去ってしまう。そして、詩といっしょに現実に取り残された男がここにいる。「物語」から取り残され、「いま」「ここ」というものだけを見つめなければならない男がいる。そのとき、男そのものが詩になる。
 これはとても刺激的だ。

 そして最終連。

そして音楽も彼を置き去りにして消え去る
あと六行書きたいと理由もなく思うが
世界はもう物音ひとつ立てず静まりかえっている…

 「あと六行書きたいと理由もなく思うが」という1行に、私は飛び上がってしまう。こんななんでもない(?)、というか、散文にしかならないようなことばが、まぎれもなく詩そのものとしてそこにあるからだ。
 詩は、こんなところまで来てしまったのだ。
 「あと六行書きたいと理由もなく思う」のは、この詩の1、2、3連がそれぞれ6行で構成されているからだ。4連目も6行で書けば形が美しくなる。男はただその形のことを思って「あと六行」と思っているのだが、そういう「意味」が、「現実」が、それまでの詩を書くという文学的虚構を完全に破壊して、「もの」そのもののように目の前にあらわれてくる。
 「書く」という「物語」を破壊し、否定し、逸脱して、時間と空間を「いま」「ここ」そのものにかえてしまう。「物語」を逸脱していくものこそ詩なのだから、この「あと六行書きたいと理由もなく思うが」という1行は、詩と呼ぶしかないのである。

 そして(というのも、少し変な言い方だけれど、こういう傑作にあったときは、どうしたって変な言い方でしか作品の感想は書けない--まだ、こういう作品に対する感想の書き方を私は知らないから)、この「あと六行書きたいと理由もなく思うが」のなかには、詩をさらに詩にしてしまう不思議なことばがある。
 「理由もなく」
 そうなのだ。詩には「理由」などない。「理由」がないから、詩なのである。「理由」に裏打ちされているときは「散文」である。「理由」が「物語」を動かしていく。しかし、詩は「理由もなく」動いてしまう。「理由もなく」動いてしまうからこそ、詩なのである。
 それは3連目を振り返るとよくわかる。

彼は風になびく娘の髪の匂いと
男物のシャツの下の乳房のふくらみに気を取られる

 ほんとうなら書かなくていいことに「彼」は「気を取られる」。なぜ? 「理由もなく」である。「理由」はないけれど、それは、「彼」のいのちに、「肉体」に深くかかわった何事なのかなのだ。自分ではどうすることもできない「いのち」の根源的な動きなのだ。「男物のシャツの下の乳房のふくらみに気を取られる」のは。
 そして、そうであるなら、最終連の、

あと六行書きたいと理由もなく思うが

 の「理由」も、「いのち」そのものとかかわっている。ここで「あと六行書きたい」というのは、技巧の問題や形式の問題ではなく、谷川の「いのち」のありようの問題なのである。

 2009年のはじまりに、ものすごいものを読んでしまった、読まされてしまった--と感じた。この驚愕以上のものを、今年は、いつ、どこで会えるだろうか。




どきん―谷川俊太郎少年詩集 (詩の散歩道)
谷川 俊太郎
理論社

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