リッツォス「棚(1969)」より(1)中井久夫訳 | 詩はどこにあるか

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安楽椅子    リッツォス(中井久夫訳)

この安楽椅子は死んだ男の座っていた椅子だ。
縁びろうどの腕は当たっていたところが光っている。
あいつが連行された後、蠅が飛んできた。静かな大きな蠅どもだった。
冬だった。
オレンジが豊作だった。オレンジの貯蔵場の垣越しに
オレンジを投げ入れてやった。
曇りでもあった。いつ暁にあったのか、わからなかった。
別の日、早朝、室内装飾屋が来て刷毛で扉を叩いた。
痩せた召使が返事した。召使は死んだ男のネクタイをやった。
淡青の、黄色の、黒のタイを。皆、召使にウインクした。
今、安楽椅子は地下室にある、鼠取りを載せて--。



 「アルゴ畝の没落」のときも書いたが、リッツォスの「もの」のとりあわせ(ことばのとりあわせ)には俳句に似たところがある。聖と俗が出会う。その瞬間の、緊張とおかしみ。遠心と求心。
 この作品では、3行目の「蠅」、そして最終行の「鼠取り」が、「俗」を強調している。
 人間のいのちは「聖」だけでは成り立っていない。「俗」を含んでいる。そういうことはだれもが知ってはいるが、いったん「聖」の意識に捕らわれると「聖」にことばがしばられてしまう。世界がひとつの方向に形成されてしまう。そういう形で、「聖」そのものを今を超える次元にまで高めていくという作品もある。(逆に、「俗」をつきつめていく作品もある。)短い作品の多いリッツォスは、そういうことはしない。精神の運動をていねいに追い、それをある高みにまで到達させるということは、他人の仕事にまかせているようだ。リッツォスは短い詩を書く。短い詩は、精神が一定の高みに到達するという運動を描くには適していないことを知っている。短い詩は、現実を切り取り、そのなかに世界の構造を浮き彫りにするのに適している。リッツォスは、そういう仕事をしている。
 世界は「聖」と「俗」とでできている。その組み合わせが私たちのいのちを活気づける。

 この詩は、男がなぜ連行されたか、どこで死んだかなどは書いていない。たぶん、連行された先で死んだのだ。安楽椅子はそれを知らずにただ男の帰りを待っていた。だが、帰って来なかった。かわりに蠅が飛んできた。そして、今は、鼠取りが座っている。--ここに、人間のいのちの淋しさがある。あらゆるものは非情である。その非情さが人間の感情をさっぱりと洗い流し、抒情を清潔にする。淋しくさせる。
 淋しい、ゆえに我あり--と西脇順三郎のように呟いてみたくなる。こういうときは。