アレクサンドル・アジャ監督「ミラーズ」(★) | 詩はどこにあるか

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監督 アレクサンドル・アジャ 出演 キーファー・サザーランド、ポーラ・パットン、エイミー・スマート

 鏡は不思議な存在である。私たちは鏡に自分の姿を映してみる。そして、それが左右が逆であるにもかかわらず、それを自分の姿と認識する。でも、「逆」とはなんだろう。なぜ、鏡の世界を「逆」と感じるのだろう。もしかすると、私の方が「逆」で、鏡が「正」なのではないだろうか。鏡がほんとうの世界で、私たちの世界は鏡が描こうとしている世界を反映させたものなのではないだろうか。
 こういう疑問は、想像力が逸脱してしまう幼少期にだれもが一度は考えること、感じることである。この映画は、そういう不安定な感覚を出発点にしてつくられている。
 鏡に触れると、そこに手形がついて、それが鏡と私たちの世界の出入り口になる、というか、鏡に手形が刻印されて、鏡の世界からのがれられなくなる--という構造は、なかなかおもしろく、ホラー映画の出だしとしては快調だと思う。鏡だけではなく、磨かれたテーブル、水面、ドアのノブなど、ようするに姿を映しだすものすべてが、そういうものへの入り口だとする設定も、鏡の領域をひろげるものとしておもしろい。
 ただし、そうやって鏡を増幅させ、感覚がどんどん鋭敏になり、存在しない世界を描き出していくのならいいのだけれど、この映画は非常に後味が悪い。人が殺される(死んでいく)ときの映像が、ただただどぎつく、不気味なまでに悪趣味である。キーファー・サザーランドの妹がバスタブの中で死んでいくシーンは、彼女自身が鏡を見ていないのだから、そういうことが起こりうるはずがない。観客をこわがらせるだけのためにつくられたシーンである。
 さらに、ストーリーが「危険」である。「危険」をはらんでいる。
 ストーリーの説明に「統合失調症」を利用しているが、こういう利用のしかたは「統合失調症」への誤解・偏見をあおることになるのではないのか。
 「統合失調症」は、この映画では万華鏡の乱反射のようにとらえている。「統合失調症」の人間の内部には、複数の人間の魂が存在し、それが凶暴に暴れ回っている。その複数の魂と、人間を閉じ込める「万華鏡」をとおして直面することで、自己のすべてを認識することで完治するかのように説明される。万華鏡に映し出される映像の乱反射は、どれがどれかわからないけれど、それをしっかり識別できれば、そして識別したものを自分ではないと「外」へ出してしまえば、「統合失調症」はなおると説明される。ただし、そうやって「外」に出された複数の魂は、なんとかしてもとにもどりたいと(つまり、一人の人間の内部にもどりたいと)熱望しており、その欲望が怪奇現象を引き起こしていると説明される。
 この映画は、最終的に「統合失調症」だった少女が完治したために不可解な現象が起きたと説明され、その少女(映画の中では最終的に老人になっている)が「統合失調症」にもどり、様々な魂を受け入れたまま焼け死んでいくことで解決する。
 あ、ひどい。
 これでは、キーファー・サザーランドの「家族を助けてくれ」という願いを聞いた少女(老女)が救われない。「統合失調症」の人間が「統合失調症」のまま死んでいかないかぎり、世界は呪われたままである、怪奇現象が起きる、というのは、「結末」としてひどすぎる。

 映画では、そのあと、奇妙なオチがついている。少女(老女)を殺して、家族を救ったあと、キーファー・サザーランドは瓦礫のなかから這い出し街に出る。しかし、その街はすべて「鏡像」になっている。鏡に自分の姿を映してみると、そこには自分の姿は映らない。そして、鏡に触れた手形だけは鏡面に刻印される。--キーファー・サザーランドは、鏡の内部に入ってしまって、もう自分の姿を見ることができない。自分の姿を見るためには、少女(老女)のように鏡が向き合った万華鏡の世界へ行くしかない。
 こんなことで、「統合失調症」に対して、何か謝罪した(?)とでも言い訳するつもりなんだろうか。