浜田知章「日本の哲学者について」、鈴木志郎康「極私的ラディカリズム」 | 詩はどこにあるか

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浜田知章「日本の哲学者について」、鈴木志郎康「極私的ラディカリズム」(「現代詩手帖」2008年12月号)

 浜田知章「日本の哲学者について」の初出紙誌は『海のスフインクス』(2008年05月)。
 西田幾太郎「善の研究」について書いたものである。

私が小学六年生の時
初めて日本の哲学者を知ったのである
主観といい客観といい ものの考え方を
その時知った
それはやや宗教的なにおいがしたが
かえって神道的なものに対する批判が重なり合っていた
いくたびか日本の青年はこの哲学者を愛したことであろうか
時には戦争の中で思索し
時にはクリークの中で思索したであろう
しかしその青年たちは幸せだったんだ

 「幸せ」ということばに、不思議な清潔さを感じた。あ、そうなのだ。ことばを読む。ことばを追いかける。いままで知らなかったことをことばでつかみ取る。ことばは知らないものを自分の肉体に取り込むためのものなのだ。自分の肉体に取り込むために「思索」するためにことばがあるのだ。そして、そのために他人のことばと真剣に向き合うことを「愛する」という。
 そういう時間をしっかりと持ちたいと思う。

*

 鈴木志郎康「極私的ラディカリズム」の初出紙誌は『声の生地』(2008年04月)。
 鈴木は、こたばを独特な使い方で追いつめている。常に「身体」にひきつけている。(私は「肉体」ということばをつかうが、鈴木の「身体」ということばに影響を受けている。)
 「極私的ラディカリズム」の部分。

わたしという存在の根元は、子宮から引き出されて、
身体にあるっていうことですね。

わたしが身体と付き合っている間は、
わたしでいられる。

 この「身体」を鈴木は次のように言い換えている。

最近はカボチャを煮てます。
牛蒡と一緒に。
とろりっとして、ごりざくっ。
これが気に入って、
時にはグリンピースも入れる。

煮掛かったところで、
気を逸らして
焦がしてしまったこと数回。

 「身体」とは「暮らし」とともにある「いのち」のことである。「暮らし」から逸脱せず、「暮らし」の内部へ侵入していく。そうすると、どうしても自分自身のことばでないと言えないものが出てくる。「とろりっとして、ごりざくっ。/これが気に入って、」。これは、単に、カボチャ、牛蒡の歯触り、舌触りのことではない。その感触を、そのことばでいうこと。そういうことが、実は鈴木の「気に入って」いることなのである。そして、その「気」と一緒に、ことばが「肉体」になる。鈴木の用語で言えば「身体」になる。「身体」はそれからゆっくり、そのことばを通って「暮らし」に拡大してゆく。
 こうしたことばはいつでも私には非情に安心感がある。「肉体」はけっして人間を裏切らない。「わたしが身体と付き合っている間は、/わたしでいられる。」ほんとうにそう思う。鈴木のことばほど、裏切りから遠いものはない。
 こういうことばをとおして人間を、現在を見つめ直すことができるのは、やはり「幸せ」なことである。

声の生地
鈴木 志郎康
書肆山田

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