それらを語ること リッツォス(中井久夫訳)
われわれ、ことば、観念は没落した。その仕方を見ると、愚痴は言えない。古い学説にも、比較的新しい学生にも、アリスティデスの伝記にも。われわれの一人が二百人か三百人を思い出せば、立ちどころに残りの者があざけりながら切り捨てる。少なくとも懐疑的になる。しかし、時には、今日のような時だ、からりと晴れた日曜日、ユーカリの樹の下に坐ってこの容赦のない烈しい光の中にいると、古い栄光へのひそやかな憧憬が人を圧倒する。安っぽいなどと言っても無駄だ。夜明けに行列が出発し、先頭にはラッパ手、それに続いてミルテの枝や花綵を満載した戦車、次には黒い牛、灌●に用いる美しい油と香水の壜と葡萄酒と牛乳を捧げる人々。しかし、いちばん目を奪うものは行列の最後尾を歩む、全身を紫の衣に包んだプライタイアイのアルコンである。この一日以外は鉄に触れてはならず、身を白衣に包む者--それが今紫衣を全身にまとい、長剣を捧げ、威風あたりを払って街を横切り、英雄たちの墓に向かう。国立器具場よりの壺を捧げて墓石を洗い、豪勢に犠牲を捧げてから、アルコンは葡萄酒の杯を挙げて墓に注ぎつつ高々と朗誦する。「この杯をギリシャの自由のために倒れたる勇敢きわまりなき人々に捧ぐ」。近くの橄欖の林を戦慄が走り抜ける。その戦慄は今もこのユーカリの葉を翻し、この継ぎはぎの衣服、吊るして陽に乾かしている、ありとあらゆる色の旗を通り抜けて、そよがせている。
(●は「酋」の下に「大」の文字)
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この作品もことばが非常に多い。ギリシアの歴史を題材にした詩はカヴァフィスも書いている。カヴァフィスの方はもっと個人の肉体に入り込んだ詩だ。リッツォスは孤独を愛するせいか、他人の肉体に入り込んだことばが少ない。この作品の書き出しが、とても特徴的である。
われわれ、ことば、観念は没落した。
ここには「肉体」がない。「頭」がことばをかき集めている。したがって、それにつづくことばは、数こそ多いが、何かつよい結束感がない。肉体を通りゆけたとき必然的に帯びる一種の「熱」というか、「汚れ」がない。
ことばの清潔さはリッツォスの詩の特徴だが、こうした「歴史」を題材にした作品では、人間臭さが欠落しているように感じられ、あまりおもしろくない。