阿蘇豊「白い一本と紙のマッチ」 | 詩はどこにあるか

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阿蘇豊「白い一本と紙のマッチ」(「ひょうたん」2008年08月25日発行)

 阿蘇豊のことばはていねいに動く。「白い一本と紙のマッチ」の前半。

ぼくの前にはティポットとティカップ その中には半ばさめたミルクティそしてスプーン
「DUG」と印刷された紙マッチと「Dawadoff」と読めるタバコの白い箱

ぼくの前にあるものは
決してそれだけではないのだが
見られることによって初めて生まれる
在るという動詞

いま、白い箱を開けて白い一本を取り出せば
「ティポットとティカップ その中には半ばさめたミルクティそしてスプーン」のすべてが失われて
白い一本の紙のマッチがぼくの中に入り
「白い一本と紙のマッチ」という記述が生まれ
つかの間、在るだろう

 ことばをていねいに追っていくと、あるとき矛盾が生まれる。思考をていねいに追っていくと、あるとき矛盾が生まれる。この、存在論を、あるいは存在論とことばをめぐる静かな追求にも矛盾が生まれる。

白い一本の紙のマッチがぼくの中に入り
「白い一本と紙のマッチ」という記述が生まれ

 「記述」は「記述」についての論考の前に、すでに「記述」されてしまう。「記述が生まれ」と記述について書く1行前に、すでに記述が存在してしまう。
 この矛盾が美しい。
 矛盾とわかっていて、それでも矛盾として書くしかない--そのときの精神のふるえが美しい。ことばが、ことばであることに耐えている。ことばでしかないことに、耐えている。
 矛盾につきあたって、それからどんなふうにことばは動いてゆけるのか。それはじつのことろ、よくわからない。この詩では、最後はかなり腰砕けみたいになってしまうが、それは、阿蘇がぶつかった矛盾がそれだけ大きかったということの証拠かもしれない。
 引用したあとにつづく2連はない方が美しいと思う。書くならもっと矛盾をしっかりと見据えてほしいとも思う。

 書くこと、書かれてしまうこと、その記述をめぐる矛盾から、ことばはなにを新たにつかみとり、矛盾を超えるのか。それも、じつはよくわからない。わからないけれど、この静かな、ひとりでなにかと正直に対面していることばは美しい。

 阿蘇豊という詩人は、私の記憶のなかには、とても古くから在る。
 「イエローブック」という同人誌に参加していたとき、資金難(?)から同人を増やすことになった。公募した。そのとき公募してきたひとりである。どんな詩だっかた具体的には覚えていないが、阿蘇の作品に対して、私だけが高い評価をした。ほかの同人は別のひとを選んだ。そして、別のひとが同人になった。
 私が阿蘇に感じたのは、この詩にもあるような、矛盾をていねいに書き留める力である。静かな持続力である。あ、まだ詩を書いていたのだ、と知って、とてもうれしい気持ちになった。
 これからも美しいことばを書きつづけていてほしい。