ふるさと祖谷について書かれている。ふるさとは誰にとってもなつかしい存在である。距離の取り方がむずかしい。「牛の覚悟」は視点を「牛」に置いた。そのため、距離が乾いて、べたべたした感じがない。
ラジオから君が代が流れ
天皇陛下の玉音放送がはじまった
オヤジさんはひれ伏して
泣き続けた
夕方
オヤジさんは牛の俺の所へ来て
俺の背中を撫でて
「日本は戦争に負けよった 息子の戦死は
報われなんだ」と ポツリと言った
牛の俺も悲しくなった
(略)
進駐軍は肉が好きだとの噂が
村中で持ち切りになった
割をくったのは俺たち牛だ
「進駐軍に喰われる前に喰おうぞ」
村人は狂った野獣のように口々に叫び
俺たち牛を山の中で次々に殺した
俺たち牛を家族のように
可愛がり育ててくれた村人が
「うまいのう うまいのう」と俺たちを喰った
肉など喰ったことのなかった村人が
俺たちをむしゃぶり喰う
この、対象との距離は乱れることがない。距離とは、別のことばで言えば「物差し」になる。「物差し」とはなにかを測るときの基準である。なにかを測るとは、批評することである。なにかを測るとは、また、なにかから測られることでもある。批評されることでもある。
この相互批評の中に、詩への第一歩がある。
大倉のことばは、まだ、ことば自身を批評の対象とはしていない。だから、「現代詩」という感じがしない。けれども、その一歩は、たしかにこの作品の中にある。