豊原清明「数枚シナリオ 痛い門出」 | 詩はどこにあるか

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豊原清明「数枚シナリオ 痛い門出」(「白黒目」14、2008年11月発行)

 「数枚シナリオ」とは文字通り数枚のシナリオである。映画のためのシナリオである。数枚だから、ストーリーの大きな流れはない。ある一瞬の描写があるだけだ。けれど、これがとてもおもしろい。
 2つめのシーン。

○吉村藤吉の表札(一軒家)
   ゆりかが庭でチリ取りを持っている。
ゆりか「何ですか」
英「なつかしいなあ。ゆりちゃんでしょ。ホラ、カラオケ屋で毎日生活していただろ。ホラ 何だったかなあ あの唄」
ゆりか「(笑って)英ちゃんでしょ」

 昔(高校時代、とその前のシーンには説明がある)付き合っていた「彼女」との再会。ふたりはともに31歳という設定だから15年ほど時が過ぎ去っている。そのふたりが会って、ふいに「過去」を思い出している。共有する「思い出」があるので、「ホラ」とか「何だったかなあ」だけで通じる。そういう状況を、せりふそのものとして引き出してくる。これは簡単なようでいて、なかなかむずかしい。
 他のシーンもそうだが、登場人物の「過去」を、豊原は具体的に書いていない。映画を想定して、そのときの役者の肉体にまかせてしまっている。役者はそれぞれ肉体を持っていて、肉体を持っていると同時に「過去」も持っている。「肉体」は「過去」から出来上がっている。その「過去」にまかせきっている。
 豊原がいったい役者の誰を想定して書いているのかよくわからないが(たぶん、豊原自身と、実際の「彼女」自身だと思うが)、この短いせりふのなかには、きちんと「過去」がある。「過去」を感じさせることばの不思議な生々しさがある。

 最後のシーンの、ふたりのやりとり。

ゆりか「時たま会いに来てね。時たま、いっしょにカラオケ行こう。
 あたし働いていないのよ。する事なくて一回 やくざとも付き合ったんだけれど…」
英「(目を細めて)ほんま、くるしいなあ。」

 あ、いいなあ。「ほんま、くるしいなあ。」の未来を断ち切るような「過去」の噴出のさせ方。「現在」を「過去」がぶち破って、「未来」が「現在」に侵入して来ないようにする。その「過去」と「現在」の固い結びつき。「現在」がたたき壊されているにもかかわらず、そこに強い結びつきがある。そういう結びつきを具現化する口語。口語の肉体。この後、ふたりはふいに死ぬ。それしか方法がない、ということが、たったこれだけのやりとりで、くっきりと伝わってくる。
 これは、すごい。

 豊原は詩人としても俳人としても強烈だが、散文を書くともっとすごいことになる。そういう予感がする。





夜の人工の木
豊原 清明
青土社

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