リッツォス「証言B(1966)」より(15)中井久夫訳 | 詩はどこにあるか

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小道具   リッツォス(中井久夫訳)

もう何もすることがなかった。彼はこれでよしとする。陽は美しく
大きく輝き、島は影である。
彼は五階に登る。水差を見る。
つややかで、断固透明である。無論知っている、
下の歩道では黒い西瓜の種が吐き散らされ、
陽に乾いているのを。
女が一人、通りの向うのシャッターの陰から覗いている。
鏡の光が彼女の周りにちらちら戯れる。
彼女の片手は金色、もう一方は赤。



 これはギリシアの真昼。自然の美(宇宙の美)と人間の暮らしが対比される。歩道の西瓜の種は暮らしのだらしなさを象徴している。人間の生活の汚れを象徴している。しかし、それがあるからこそ美がより強烈に響く。

つややかで、断固透明である。

 この「断固」が強い。すべての汚れをはねつける。真昼の太陽そのものである。剛直で鋭い。
 この「断固」たる美に匹敵するものを、彼は知っている。人間の暮らしのなかにあることを知っている。歩道に西瓜の種がまき散らされているのを知っているのと同じように知っている。
 通りの向こうに住む女。
 そして、彼は見られているのも知っている。互いに見つめ合っている。覗くようにして。見られていることを知っているから、女は手に何かを持っている。この何かをこの詩は書いてはいない。書かないことによって、読者に、その美の完成をまかせている。

 さて、どうしよう、と私は悩む。
 「金色」。これは産毛だろうか。腕の産毛が真昼の光を受けて輝いている。「赤」は? 西瓜? 西瓜だとしたら、食べている姿を見せていることになる。これは、非常に色っぽい。彼女は、西瓜を食べながら歩道に新しい種をまき散らす。その口の動き。唇の動き。見られていることを知っている目の動き。とても、色っぽい。