彼はいらいらと行ったり来たりした。埃の道を。汗みずくで、
壊れたトラックとその荷を守って。裸足で、
ズボンを捲くり上げて。古代の漕ぎ手に似てる。
足は幅広いなめし皮。剥き出した腕は彫刻した筋肉。
微風が吹く。シャツに皺が寄る。逞しい背中の輪郭が見える。
正午になって浜から帰る女の子たちは歩幅をゆるめて
サンダルの紐を直すか、ベルトを締め直す。すると彼は
トラックの西瓜の上に登って、櫛を取り出し、
髪を櫛けずる。
*
ここに描かれている労働者は若い。書き出しの「いらいら」は若さ特有の「いらいら」である。自分には能力がある。それなのに、なぜこんなことをしていなければならないのか。そういう「いらいら」である。欲求不満である。
彼はなによりも、まず美しい。肉体にかねそなわった彼の特権である。
微風が吹く。シャツに皺が寄る。逞しい背中の輪郭が見える。
まるで、風さえも、彼の肉体を見たがっているかのようである。「シャツに皺」が逆に彼の肉体をくっきりと見せる。「シャツ」は肉体を隠すためにあるのではなく、強調するためにある。隠すことによって、見えないものを「想像力」のなかで探り当てさせるのである。ひとは肉眼で見たものよりも想像力で見たものの方を信じる。
女の子たちと出会い、自分をととのえるために髪を梳る。それは単に身だしなみをととのえるというのではない。自分を美しく見せるというのではない。自分はさらに美しくなれる、と誇示するのである。
この、剥き出しの、本能のような、若さの美しさ。
彼はこのとき「いらいら」していない。それが若さの特権である。「いらいら」を忘れてしまって、自分が見られていること、見られることの喜びを味わっている。そんなふうに、見られることの喜びを露骨に味わうことができる、というのは、若さの特権以外のなにものでもない。
リッツォスはそれを「櫛を取り出し、/髪を櫛けずる」という短い描写のなかに凝縮させている。中井の訳は、それをいちばん短い形で日本語にしている。こういう美は、たしかに、凝縮がいのちである。