リッツォス「証言B(1966)」より(3)中井久夫訳 | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

彼の発見物   リッツォス(中井久夫訳)

ヨルゴスはカフェニオンに座ってコーヒーを飲む、海は見ずに。
葡萄を摘む農夫の声がここまで届く。
ジプシーのテントの前で、蹄鉄屋が蹄鉄を馬のヒズメに打ち込む。
荷車がトマトを積んで通り過ぎる。

ヨルゴスは何をしてよいやら。
海はもちろん淡青色。太陽はいつもながらに太陽。
蹄鉄は扉に懸かって、孔が六つ。



 私は、こうした一瞬の情景をスケッチした作品が好きだ。「ヨルゴス」が何者かはいっさい説明されていない。そういう省略が好きだ。風景とことばが交錯する。そして、その交錯のなかにこころが浮かび上がってくる。説明する必要のないこころが。
 
ヨルゴスは何をしてよいやら。

 だれにでも、何をしていいかわからない、ぼんやりした時間がある。無為の時間がある。そして、そういう無為の時間の中で、ひとは永遠にふれる。でも、永遠といっても、「海」や「太陽」のことではない。ランボーではないのだから。もちろん、ここにも海と太陽は出てくるが、そういう「自然」の「永遠」ではなく、ひとの暮らしのなかにある「永遠」。
 蹄鉄--孔は六つ。
 あ、いいなあ。この「もの」、人間がつくりだした「もの」、それが到達した完成点。そこに永遠がある。
 それはたしかに「発見物」なのだ。