リッツォス「証言B(1966)」より(4)中井久夫訳 | 詩はどこにあるか

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容疑者   リッツォス(中井久夫訳)

彼はドアに鍵を掛けた。用心深く後を振り向いて、
鍵をポケットにねじこんだ。逮捕される寸前だった。
やつらは何ケ月も拷問した。ある宵、彼はついに吐いた。
(証拠として採用)。鍵も家も自分のだと。
だが、誰一人わけが分からなかった。どうして鍵を隠そうとしたのか。
だから釈放されたのに容疑は晴れないままだ。



 詩は事実を追求しない。「容疑者」が鍵を隠そうとしたのか、そのことを明らかにはしない。この詩のなかで起きていることはいったい何なのか。そのことについてもリッツォスは説明しない。
 では、詩は何を書いているか?

 この答えは単純である。ことばを書きたいだけなのである。私はギリシア語がわからない。原文を示されてもなにも言えない。しかし、中井久夫の訳についてなら、言える。言えることがある。
 もちろん私の見方が正しいという保証などどこにもない。それでも、この詩について言えることがある。

やつらは何ケ月も拷問した。ある宵、彼はついに吐いた。

 この1行。その「宵」と「吐いた」ということばの組み合わせ。中井はこの訳語(日本語)を詩のなかで定着させたかったのだと思う。その意志を感じる。
 「宵」は美しいことばだ。現代では「文語」に属するかもしれない。「口語」で語られることがあるかもしれないけれど、そういうことばをつかうのは、ちょっと気取ったときだ。雅語といった方がいいのかもしれない。一方、「吐いた」は口語というより、俗語である。
 ここでは、雅と俗が出会っている。正反対のものが出会っている。その正反対のものの衝突が詩なのだ。雅に支配されていた意識が、ぱっと俗に触れる。その瞬間、意識がきらめく。意識に火花が散る。それが詩だ。

 雅と俗だけではない。ここでは正反対のものが出会っているのだ。「容疑」と「晴れ」がその代表的なものだが、拷問のあいだの沈黙と「吐いた」ことば、「吐く」という行為。なによりも、分かるものと、分からないもの。その衝突が、何が書いてあるか分からないけれども、そのことばを詩にさせてしまう。
 詩は対立することばの衝突のなかにある。