生憎の
雨の棟上げ
夜には 早くも屋根になる深みに 懸垂
するっ
--蛇
何かが屋根の梁にぶら下がっている。「懸垂」している。そこから、「懸垂する」→「するっ」→「すべる」→「ぬめる」→「蛇」。蛇が梁を登っているのだ。ぬるっと滑って、半分落ち懸かっている。それをあえて、「懸垂する」と言う。
いや、紐(縄の類)が梁に残っていて、それが夜には蛇に見えたということかもしれないが。地方によって違うだろうが、私の生まれ育った田舎では、蛇が住み着く家には金がたまるといった。蛇は家にとっては縁起がいいのだ。そういう意識が縄を蛇に見せたかもしれない。
いずれにしろ、「懸垂/するっ/--蛇」という改行のなかには、ものとことばを結びつけるという基本的な接着剤がはがれ落ち、ことばが自立して動いている。それがおもしろい。
*
村永には柴田基孝の影響があるかもしれない、と書いたが、『されない傘』には柴田が「しおり」を書いている。その「しおり」を読んでいて、私は、あっと声を上げた。「さされない傘」を引用している。そしてコメントしている。
”されない傘”というものもある すんなり受け身に
世にあまたの傘のなか 本数が少ないか たまに持たされると ハッっとなり蛙の腹で空をふさぐ ほどなく持ち帰る か 水切りの後 ぐったり場に倒したまま 足はうすらいだ頭を垂れている
これはタイトルポエムの冒頭部分だが、がんらい村永の詩のなかに持ち込まれる道具はすべて家庭の日常に見るものばかりである。その日常用具の処理がムラナガ語の世界で秩序を変えることで、モノの重みが変わり、コトバの景色に亀裂が生まれる。つまり、世界はその大小を問わず、いかに関係に依存し、関係に群がっていることか。する傘、される傘はあっても、されない傘はありえなかった。それに、「ぐったり場」。ありえないものが登場することは、ひとを緊張させる。
あ、柴田さん、誤読していますよ、と私はいいたい。(私が誤読なのかもしれないけれど。)
「されない傘」というのは「持たされない傘」の省略形。女が男に傘を持たせる。そのときなんとなく傘を選ぶ。その選択からこぼれおちたものを「(持た)されない傘」と村永は呼んでいる。そして、「ぐったり場」というのは、場所の名前ではない。村永が発明したことばではない。
傘は家へ入るとき水切りされる。そのあと立て掛けられる傘もあれば、その辺り(場)にぐったり倒したまま(放り出されたまま)にされる傘もある。「ぐったくり」は「場」を修飾することばではなく「倒した」を修飾することばなのだ。
村永は、この柴田のコメントを読んだとき、どんな気持ちだっただろう。あ、違うのに、と思ったけれどそれをつたえられなかったのではないのか。そこに、村永の柴田への敬愛がうかがえる。いいづらかったんだろうなあ。
そして。
「ぐったり場」か。そんなふうに読んでもらえるなら、そっちの方がおもしろいかも、と思ったのかもしれない。誤読を積極的に受け入れ、受け入れることで、村永は自分のことばを変えてしまった。「されない傘」を柴田との合作にしたのだ。
ジャズセッションのようなものだ。ことばはことば。ものはもの。--そう考えるときにのみ、成立する合作、パフォーマンスだ。
詩とはもともと誤読されるためのものだから、これはこれで、とても楽しいなあ、と思った。
詩人藤田文江―支え合った同時代の詩人たち 村永 美和子 本多企画 このアイテムの詳細を見る |