高岡修「現代詩文庫190 高岡修詩集」 | 詩はどこにあるか

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高岡修「現代詩文庫190 高岡修詩集」(思潮社、2008年09月17日発行)

 「二十項目の分類のためのエスキス・ほか」という詩集がある。高岡の初期の詩集である。この「エスキス」ということばに高岡の詩の特徴がよくあらわれていると思う。
 素描は、いわばメモ。それは必要最小限のものを書き留めたもの。いずれ、それを補足する形で「大作」が完成する。素描に必要なのは、線のスピードである。ことばの場合は、ことばのスピードである。そして、そのスピードというのは、たいていの場合はオリジナルであってはいけない。そこに個性があると、つまずいてしまう。すでに完成されているもの、つまり、古典からの引用でなければならない。古典は他者によって十分共有されている。共有されているものはすばやく動く。つまずかない。素描に必要なのは古典の力である。
 「ある建築物のためのエスキス」の「1」の部分。

その建築物は
天空から吊るされている
天心とおもわれるあたりから
強靱な綱が垂れていて
その上端を
死者たちの歯が噛んでいる
一種の浮遊状態にあるわけだが
その建築物が落下するというようなことはない
そこでは
重力というより
物質の質量そのものが存在しない

 「天空」には「天心」が呼応する。「吊るす」のに必要なものは「綱」である。「綱」を「噛む」のは「歯」である。この一連のことばの運動は古典である。綱をつかんでいるものが、たとえば果てしなくのびる欲望の舌であったなら、このエスキスはエスキスにならない。個別の完成を目指した作品になってしまう。
 「重力」「物質」「質量」。ここにも存在するのは古典である。
 高岡は、一方で「死者」とか「歯」とか、「噛む」とか、いわば人間の肉体を感じさせるものを置き、他方に「物理」という非生命体を置く。いわば、相いれないものをぶつける。いや、とりあわせる。これは「俳句」の古典的な手法である。
 高岡は、現代詩の形を借りて、いわば「俳句」をやっている。

 「俳句」は短い文学である。「俳句」は、ことばの量だけを問題にすれば、素描の素描の、そのまた素描になるかもしれない。しかし、文学というのは「ことばの量」ではないから、「俳句」を素描から独立させるものが必要である。それは何かといえば、対象を矛盾のままつかみとる把握力である。体感力である。

 高岡は、現代詩において、その把握力を放棄している。放棄することで素描にしている。

そこでは
重力というより
物質の質量そのものが存在しない

 こういうことを、俳句では対象に託して一気に噴出させる。世界をたたき割り、たたき割った瞬間に再結合させる力で一気に閉じる。そういう力にすべてをかけるが、高岡は、そういう力を放棄して、現代詩のなかに逃げている。
 私には、なぜか、そんなふうに感じられてしまう。

 「エスキス」が「エスキス」として独立して存在するためには「余白」が必要だと思う。それは「俳句」でいえば「切れ」のようなものかもしれない。高岡の俳句を私はそれほど読んでいるわけではないが、高岡の俳句には「切れ」が少ないように感じられる。(文法上の「切れ」のことではなく、感覚の「切れ」のことである。)そして、その「切れ」の少なさが、何か、とても古いものを読んだような気持ちを呼び覚ます。
 それは古典の古さとは違う古さである。古典はいつでも新しい。もちろん古典のなかにも古い部分があるけれど、それを超えてしまう新しさがいつでもある。

 私は、どうやら高岡のことばが苦手なのかもしれない。どの作品にも「傷」はない。どの作品も美しい。けれども、その美しさは、近付きたい美しさとは少し違う。
 逆に言えばいいかもしれない。世界には汚いものが沢山ある。汚いものには私は基本的には近付きたくないが、なかには魅了されてしまう汚さというものがある。いやなんだけれど、それにそまってみたい。汚れてみたい。汚れる楽しみにふけりたい、という欲望を燃え上がらせるものがある。--そういう欲望とはまったく反対の気持ちになる。高岡の書く美しさ。それには、まあ、近付かなくていいかな、という感じになる。
 どうぞ、高岡の作品が好きなひとは好きになってください。私はちょっとほかの用事がありますので……、と、つい、書いてしまう。






高岡 修
思潮社

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