水島英己『楽府』 | 詩はどこにあるか

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水島英己『楽府』(思潮社、2008年10月31日発行)


 「辺野古野辺」という作品がある。その書き出しが好きだ。

へのこのへ
ぼくたちの窪みに雪が降る
まりんん・すのうが激しく辺野古の海で降る
どこの子
辺野古の子
ぼくたちの窪みに雪が降る
あたたかい呪言が慄える 鮮やかな珊瑚の樹木が枯れる
へのこの辺
坐りつくす人を思う

 水島は「あとがき」で、『楽府』は「怒りの詩」であると書いている。この書き出しは、一見、「怒り」から遠くにあるように見える。リズムが美しいからだ。けれども、私は、この書き出しにいちばん「怒り」を感じた。他の作品には「怒り」がそれほど感じられなかった。

へのこの辺
坐りつくす人を思う

 「坐りつくす」がすごい。「立ちつくす」ということばにはなじみがあるが、「坐りつくす」ということばには私は初めてであった。
 「立ちつくす」はただ立っているだけ。なにもできない。そういう状態をあらわすと思う。(私は、そういう意味合いでつかう。)「坐りつくす」は、ただ坐っているだけ、何もできないという感じになるのだろうか。
 --しかし、奇妙だ。「立ちつくす」の「立つ」は、何か行動をしたいのだが、それができない状態だ。「立つ」というのは、何か行動をするための準備のようなものである。何をするにも人間はまず立ち上がる。そして動く。「立ちつくす」は何かしようとする準備はこころのなか、肉体そのものにあるのだが、それができないことを指すだろう。
 「坐りつくす」は、何かをしようとてして「坐る」のではない。「坐る」とは、もともと何かをしないために坐るのである。立つのが何かの準備であるなら、坐るのは何もしないことへの準備である。
 何もしないことが「怒り」である。

 怒りのために何かをする、ということがある。一方、怒りのために、何もしないということがある。抗議には2種類ある。積極的に動く抗議と、絶対に動かないという抗議である。「座り込み」などは後者になる。
 そしてそれは、無防備な抗議である。無防備な怒りである。自分を投げ出しての抗議、命を投げ出しての抗議である。座り込みはハンガーストライキへとつながる、厳しい抗議である。

 そういう無言、無抵抗の抗議をする人々の胸のなかには何が去来するのだろうか。何を思っているのだろうか。
 この作品では、マリンスノーを思っている。青い海に降るプランクトンの遺体。それに自分たちを重ね合わせている。死が美しく見える瞬間がある。死が美しいというのは錯覚かもしれない。けれど、人間は錯覚を生きている。無抵抗での抗議--無抵抗が最大の抗議になるというのは錯覚かもしれない。それでも、それを選ぶしかないときがある。

 沖縄の悲しみと沖縄の切実な願いを思った。私は無抵抗の抗議というものに与するタイプの人間ではないが、水島がここで書いている抗議は、その「坐りつくす」という一語で、私をぐいと引きずり込む。「坐りつくす」人たちの胸のなかに降るマリンスノーにこころが動かされる。
 辺野古はキャンプシュワブの近くにある。--いや、キャンプシュワブは、辺野古の近くにある。


今帰仁(なきじん)で泣く
水島 英己
思潮社

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