確かめられないもの リッツォス(中井久夫訳)
彼はいつもその壮大な輝きを強調した。
彼は言った。眺めるだけでなく触れているよ、と。
私は目で見ず、触れるだけにした。私はそれを持った。私はそれになった。
辺りが暮れてゆくにつれて
部屋も卓子も灰皿も輪郭を失ってきた。
海の景色も、大きな柱時計も、私たちの顔も。
彼は己の椅子に座ってほんとうに輝いていた。
椅子も、その四つの脚も光を放っていた。
ちょうど雲に乗っているようだった。
彼に触れて確かめようとしかけて、
だが、席を立つ勇気がなかった。
私たちは階段の最上段に寄り掛かっていたから。
段の欠けた階段で、とても高く、それに私たちは登ってきた覚えがなかった。
*
これがリッツォスではなく、カヴァフィスだったら、この詩を男色の詩と読むことができるかもしれない。「彼」のその「壮大な輝き」を発するものに触れる。それを実感する。その実感の中で、日は暮れてゆく。何もかもが輪郭を失って、わかるのはその感触だけ。その感触をだけではなく、「彼」そのもの、その等身大のすべてに触れたいが、それができない--「彼」の「その壮大な輝き」には触れることができるが、「彼」そのものには触れることができない。それが、愛。
だが、何かが違う。
カヴァフィスの詩には性を超えてひとを誘い込むような甘い匂いがある。その甘さがリッツォスにはない。孤独で、孤立している。それが男色とは相いれないような気がするのだ。セックスから遠い感じを印象づけるのだ。
私は、この詩の、
辺りが暮れてゆくにつれて
部屋も卓子も灰皿も輪郭を失ってきた。
この2行が好きだ。特に「失ってきた」の「きた」にこころが震える。失って「ゆく」ではなく、「きた」。それは「私」がのぞんでいることなのだ。「ゆく」ではなく、「きた」が何かの到来を告げる。それを待っているという感じが、「きた」にこめられている。
「私たちの顔も」「輪郭」を失ってきている。闇の中で一体になる。そのときが「やってくる」という思いが、そこにあふれている。その瞬間こそを、「私」は確かめたいのだ。しかし、それがこわくてできない。
これはいわば、男色にそまる前の、男色の世界かもしれない。男色に踏み出せずに、孤独を抱え込んでいる「私」を描いているのかもしれない。そのとき、確かめられないものとは、ほんとうは「彼」ではなく、「私」自身の姿でもあるかもしれない。