コリーヌ・セロー監督「サン・ジャックへの道」 | 詩はどこにあるか

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監督 コリーヌ・セロー 出演 ミュリエル・ロバン、アルチュス・バンゲルン

 1500キロを歩く巡礼の旅。その過程で仲の悪い兄弟が仲違いをやめ、いっしょに歩いた仲間たちの団結も強くなる、という単純な話である。
 とてもおもしろそうな予告編だったが、予告編に欠けていたものが本編でも欠けていた。
 風景である。
 自然の野山の、人間を拒絶するような美しさ。あるいは様々な教会の人間を超越する建物の美しさ。そういうものが「断片」でしか出てこない。「断片」であっても、そこを歩いている人間を圧倒する存在感で登場するならおもしろいだろうが、単なる背景になりさがっている。
 自然や偉大な建築物には生身の人間には太刀打ちできない何かがある。そういうものの影響が「巡礼」には反映するはずである。15キロ歩くのではない。1500キロも歩くのである。肉体だけで自然に向き合うのである。そのときの自然との対話というものが肉体に反映されて当然なのに、この映画ではそういうものは描かれない。
 街中では自然におこなわれていることがいかに滑稽なことであるかを自然のなかで展開してみせるだけである。1本の木の下で全員が携帯電話をつかって話しはじめるシーンはその象徴的なものである。自然は、この映画では人間を戯画化するためにのみつかわれている。これではつまらない。
 ヴェルナー・ヘルツォーク監督の「フィッツカラルド」は巨大な船で山越えをするというとんでもない映画であったが、そこでは自然が、緑が氾濫し、その氾濫が反乱そのもののように人間を圧倒する。そういう壮絶さがあった。自然と人間は相いれない。自然に敗北しながら人間は人間であることを確かめる。
 そういうシーン。敗北をとおしての人間同士のいたわりあいがない。せいぜいが、重い荷物をこっそり捨てるくらいである。まるでマンガである。
 こうした安直さは、たとえばキリスト教のイスラム教徒への許容力のなさに対して、主人公のひとりが差別だと怒るシーンに反映されている。教会は宗教の違いを受け入れない。けれどもいっしょに歩いた仲間たちは宗教の違いを超えて団結する……。こういうシーンが力を持つとしたら、歩いてくる過程で、仲間たちが宗教についてあれこれ対話するということが必要なのに、そういうものがない。何の議論も無しに、突然、そういう絵空事を主張しても、それはキリスト教を批判するための批判にすぎない。
 この映画の唯一の救いは難読症の少年である。バカと思われている。自分でもバカであると感じているらしい。この少年が唯一人間らしい反応を一貫して持続し続ける。母が死ぬなんてどんなに寂しいことだろう。人間が死ぬなんてどんなに悲しいことだろう。そういう視点で人間と絶えず接している。彼だけが一貫して愛を生きている。その愛を、やがて全員が共有するようになるのだが、これもまたちょっと安直な感じで描かれている。
 ほんとうに映画でしか描けないものがあるはずなのに、それを省略して、ストーリーにしてしまっている。映像が欠落して、ことばだけが一人歩きしている。