入沢康夫と「誤読」(メモ44) | 詩はどこにあるか

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 入沢康夫『夢の佐比』(1989年)。
 「「夢の錆」異稿群」。これは散文形で書かれた「夢の錆」に対して「異稿」という意味だろう。しかし、「異稿」という限りは、そこに「同稿」というものが含まれていなければならないのではないだろうか。あるのかもしれないが、一目でわかる、というものではない。「かつて座亜謙什と名乗つた人への九連の散文詩」の詩のように、「校異」が存在するような形では、そこには違いが存在しない。
 なぜ「異稿群」なのかわからないのだが、同時に、これがほんとうに入沢のことばなのか、と思う行も出てくる。
 「Ⅲ(屋根の棟に)」の後半。

もう動けなくなつてしまつたのは
何か どこかで まちがつたのかもしれないと
私の心でない もう一つの心が
どこかで考えてゐるやうであつたが
あれも やはり私の心かもしれないし
それとも
どこにもないのかもしれない
いまの私に 心などは

 「あれも やはり私の心かもしれないし」の「あれも やはり」という語調にのみ入沢を感じる。ただし「あれも やはり」の1字あきを存在しないものと考えたら、のことではあるのだが。
 どうして入沢はこの詩群を書いたのか。

 私にとってなじみ深い入沢も、随所にはあるのだが……。たとえば、「Ⅴ(漂白)」のなかほど。

天の軌道から垂れ下がる大蛇の尾
鳥どもは右に大きく傾いた帆げたにひしめき合ひ
真上に輝く《青みを帯びた環に囲まれた赤い星》を崇める
遥かな島の湖の中の岩の上の卵の殻
その中にあるといふ宝玉は 実は蜥蜴の糞にすぎない
死者たち全ての願望が凝つて成つた(と思はれてゐる)
どすぐろい翼を持つた太古の爬虫の……

 「宝玉」と「糞」というような激烈な対比、対比によって輝くことば。「成つた(と思はれてゐる)」というような先行することばをすぐに否定する(疑問視する)ことば、その接近感。そこには一種の「ゲシュタルト」の裂け目がある。そして、その「裂け目」はまたある意味では「ゲシュタルト」そのものをつくりだしているのだが。

 入沢のことばはいつでもある運動を含んでいる。その運動がある世界を描き出す。と同時に、その描き出したもの、というより、運動が描き出す世界の、その描くスピードが速すぎるので、ことばから「別の意味」が浮かんできてしまうような、「誤読」を誘う何かがある。
 正確に読まれない--そうすることが唯一正しい読み方だというような、不思議なことばのスピード。スピードが描き出す幻影。幻影であるがゆえに、人はそこに自分自身の見たいものを反映させる。
 --これは、私自身への批判を含めてのメモなのだが。