柴田千晶「横須賀」 | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

 柴田千晶「横須賀」(「hotel 」17、2007年05月20日発行)
 たぶん「俳句」なのだと思う。

朧夜の遠隔操作人堕ちぬ

 冒頭の、この作品が一番おもしろい。と、感じたのは、最初に読んだためなのか、それともほんとうに一番おもしろいのか。実は、よくわからない。
 朧夜。遠くマンションか何か。ひとが動いている。それを見ている。ひそかに、こころの奥に「あの人が落ちれば」と動く意識がある--と読んではいけないだろうか。「詩」ならば、私は確実にそう読む。そして、「遠隔操作」ということばに震える。
 「俳句」の場合、どう読むのだろうか。

機関車の突き刺さりたる春障子

 「機関車」というものを柴田はどこで見るのだろうか。「障子」はどこで見るのだろうか。私は、もう10年以上も、機関車も障子も見ていない。俳句が現実を描かなければならない理由はないのだが、どこから「機関車」や「障子」が出てくるのか私にはわからなかった。
 「新感覚派」のようなことばの出会い。そこに柴田は短い詩=俳句を感じているのだろうか。
 俳句と短い詩は別のものだと私は思うのだけれど。

魚眼レンズに血族結集花筵

 「に」が俳句ではないという感じがする。この粘着質(ここに柴田の「詩」があるのだけれど--「朧夜の」の「の」、「機関車の」の「の」も同じ)が俳句の世界とはちょっと違う。俳句は粘着質で、己から出発して世界を構築していくというものではないと思う。己と世界が一瞬の内に交流し、融合し、一体になるものだと思う。そういう一瞬の運動、一点でしか表現できない運動と「に」が矛盾する。接続を印象づける「に」ではなく、ここではむしろ切断、「切れ」がほしいと思う。
 「結集」も苦しい。「血族」がすでにかたいことばなのだから、ここは緩急をつけて、世界の幅を大きく取るべきだろう。