入沢康夫と「誤読」(メモ27) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

 入沢康夫『かつて座亜謙什と名乗った人への九連の散文詩』(1978年)。
 「校異」を記録したように装った「第三のエスキス」は仕掛けに満ちている。たとえば、「五、」の部分。

漂白された→③みおつくしをちりばめた

 「エスキス」の「みおつくしをちりばめた」は最初は「漂白された」であったものが変更されたと報告されている。「漂白」と「みおつくし」。何の関係もないように見える。しかし「みおつくし」を漢字に書き換えると一変する。「漂白」「澪標」。「漂」は「澪標」の漢字2文字の「へん」と「つくり」を組み合わせたものである。意識の「誤読」ではなく肉眼の「誤読」が隠されている。漢字の読み違えにつられて、ことばが動いた。そういうものも含めて入沢は「誤読」を考えようとしている。人間は「誤読」する。わからないものに出会ったとき、自分の知っているものでことばで間違って読んでしまう。そういう間違いの奥には、人間の意識の、何かをわかりたいという欲望が潜んでいるかもしれない。わからないものをわからないままにするのではなく、わかりたい、納得したい、そうすることで安心したいという欲望があるかもしれない。

《屋〔根〕→(削)》屋根を伝つてどこまでも走つて行く
    (谷内注・かっこ記号は原文は別。表記できないので別のものを代用した。)

 という例もある。

 「漢字」の「誤読」、「漂白」から「みおつくし」への「誤読」には「教養」というか、「文化」の「誤読」がある。ある文化的意識がないとできない「誤読」である。「誤読」とは文化があってはじめて成立するものである。このことは「誤読」が文化的行為、文学的行為であるという意味になる。「誤読」しないのは(できないのは)、文化的・文学的教養がないからである。--これは大変な「逆説」かもしれない。「誤読」してしまう程度の「教養」ではなく、それを上回る「教養」があれば「誤読」は生まれないのだから……。そうした微妙な問題を浮かび上がらせているのが次の部分。
 「第四のエスキス」の「二」の部分。

茂つた薤の露の一つ一つに億千の青い世界が映り、
                 (谷内注・引用はテキストの行分けとは異なる)

 これは「薤露歌」を踏まえている。漢代の葬送の歌。人命のはかないことは、おおにらの上の露のようだと歌う、と「新漢語林」(大修館書店)に書いてある。
 死、そしてそれ以降の世界を前提にすると、「エスキス」の「二、」の最後の部分もよくわかる。

はるか下の下の方に、巨大な星々の都市が浮かんでいる。
                 (谷内注・引用はテキストの行分けとは異なる)

 これは「あなた」のたどりついた天上世界から、宇宙を越える天上世界から、宇宙を眺めた姿である。
 「理想」が、ここでは「誤読」されている。「誤読」という形で「理想」が語られている。「理想」を語るというのも、ひとつの文化・文学である。