句読点の意識が非常にしっかりしている文体だ。
すべてが終わって不可解に静止したその姿勢から、縦横しっかりと空箱の遠い隅にも届く視線を送って、それまでを振り返る、曲がりねじけたものたちは、土地言葉の滑らかな藤谷戸の朝市に出回らないうちに、まだ明け切らない初々しい薄闇に捨て置かれ、正当性を与える刻印や行間の油断を嫌う物語化の跋扈するこの地では、解けない縺れは観念が先行する視点とセットにされて、ごくごく日常の偶然事を畸形とか、パラドックスとか呼んでいた。
句点まで追いかけて読むと何のことかわからない。入り組んだ何かを書いている、書こうとしているのだろうと感じる。その一方で、読点ごとの文節自体は非常に明瞭である。文節ごとを明瞭にし、文全体では全体像がわからないものになるように書かれている。
大澤にとって、世界とは、そういうものなのだろう。文節を断片と読み替えれば、世界の断片断片はそれぞれ明瞭である。そして、その断片が明瞭でありすぎることによって全体がぎくしゃくする。世界の全体を納得できるように把握するためには、人間はどこかで「省略」を必要とする。見えているけれど見なかったことにして全体を優先するという思考の働きが必要だ。しかし、大澤はそういうことをしない。見えているものをより見えるように断片に近付いてゆく。肉眼を断片の対象にすりつけるようにして見つめる。そして、次の断片へ、さらに次の断片へと移ってゆく。全体をまとめる何かは、肉眼を対象に近づけすぎず、ちょっと離れて見るということも必要なのだが、そうした対象と距離を置くことを拒んでいる。そうした視線の動き、断片から断片への移りを句点「、」が正確に再現している。その正確さ、その強靱さが大澤の詩の魅力だ。
大澤も同じ号で「秋空の広がりが欲しい その気分なのに」という作品を書いている。こちらは行分け詩である。その1行1行は、散文詩の読点ごとの文節のように独立している。大澤は同じ方法で散文詩と行分け詩を書いている。行分け詩の方が1行1行がより独立して感じられるはずなのに、不思議なことに、大澤の場合、行分け詩の1行よりも散文詩の1文節の方が私には独立性が強く感じられる。散文詩の方が、文節がざらざらし、ことばが屹立して感じられる。空白の効果が、たぶん大澤の詩の場合、逆に働くのだろう。行分け詩の1行がつくりだすまわりの空白、その空白のなかに1行の独立性が広がってゆく。散文詩の場合、文節がひしめき合い、そのひしめく力で文節が押されて隆起してくる。そんな感じがするのだ。
句読点の意識が明瞭なので、こうしたことが可能なのだと思う。強靱な句読点意識、文節の意識が、文節のエッジを鋭くするのだ。とてもおもしろいと思った。